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5月31日 向河原教会の信徒への手紙⑧

  神の御心によってキリスト・イエスの伝道師とされた小松から、向河原教会に連なる聖なる者たち、キリスト・イエスを信ずる人たちへ。わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように。  向河原教会の信徒への手紙の8通目の手紙となりました。4月12日のイースター礼拝の休止になってから50日目の今日は、聖霊降臨の出来事を覚えて、ペンテコステ礼拝を捧げることができると思っていました。思いもしなかった長い忍耐が必要とされています。けれども、今が大切な時です。教会で共に礼拝したい思いを抱きながら、それぞれの自宅での祈りの時に、使徒言行録2章を読んでみてください。  ペンテコステの時、天からの霊を受けた使徒たちが、いろいろな国の言葉で話し出したました。そこに集まっていた多くの人とは世界中の人々です。それぞれ国が違い、言葉も違うのに、皆理解できたと言います。そこでペトロが立ち上がり、主の証人として語りだしました。私たちもそれぞれに持っている生活の言葉があります。育ってきた家庭での言葉があり、信じてきたものがあり、支えられてきた言葉や習慣があります。しかし、「わたし」に届けられた神の言葉を聞いて、主イエスの救いを目の当たりにして教会へと集まる者になりました。  主の霊を受けることは、ペンテコステの出来事のように、目に見えてそんなに輝かしいことではないかもしれません。けれども、その炎を絶やさずに持っている人、主の霊を受けた人に出会ったとき、私たちは心に小さく灯る炎を得ていることに気がつくと思います。使徒たちは旅をして伝え歩き、手紙を書いて回りました。優れた人だからではなく、主の霊を受け、炎を絶やさなかったからできたのでしょう。  今日は、先週の「教会に集う方々の思いも聞きたい」という呼びかけを受けて2名の方からの手紙を頂きましたので同封します。お一人の方は、「自粛前よりも色々なことをして過ごしている」ということに驚きました。また、「近所の友達と声を掛け合う」というのは、ご本人の明るいお人柄が目に浮かびます。私自身はこうした近所で声を掛け合うということが少なかったように思いました。こんな時期だからこそ、またこれからの緊張感のある社会生活では特に、声を掛け合って励まし合い、支え合うことが大切だと思いました。

5月24日 向河原教会の信徒への手紙⑦

神の御心によってキリスト・イエスのものとされた牧師・石丸から、向河原教会にいる聖なる者たち、キリスト・イエスを信頼する人たちへ。わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和があなたがたにあるように。 お変わりなくお過ごしでしょうか。疲れたという方、心配ばかりが募るという方もあるかもしれません。わたしも時々、先が見えない中に放り込まれているような気持ちになって過ごしています。 どう過ごしていますか?というのは、この世界、この事態を、どう感じて過ごしていますか?ということでもあると思います。 こう感じている方がいます。「今は『教会のコロナ捕囚』の時である。だから今は耐えるときである。やがて必ず捕囚の時は終わる。・・・だから私たちは、捕囚から解かれた後に、あのエズラ、ネヘミヤに訪れた礼拝の喜びが来ることを確信して、それをじっと待ち望むべきなのである」(「オンライン礼拝をどう考える?“教会のコロナ捕囚”」芳賀力(東京神学大学学長)キリスト新聞より)。 かつて旧約聖書の人々が経験したバビロン捕囚も、「すぐに帰れる」と思っていた多くの人の予想に反して、その期間は50年以上続きました。自国に帰還することができた人たちは、バビロンに連れて行かれた人たちの次の世代でした。長い時間が掛かりました。 確かに、今も同じだと言えるかもしれません。5月17日に予定されていた礼拝再開は6月に伸びました。さらに言えば、仮に6月14日に再開できたとしても、その日以降、すっかりそのまま、かつての通りに戻るわけではありません。おそらく、イレギュラーなことが続くと思います。もしかしたら、わたしたちの生活が元通りになるのは、次の世代になってからかもしれません。そうすると、いつまで待つのだろうか、いつまでわたしたちの「コロナ捕囚」は続くのだろうかと思います。 他方、このように言う方もいました。「かつての礼拝生活をいかに維持し、継続できるかに、心をすべて奪われてはなりません。神は今、これまでの礼拝生活を中断させました。それは、きっとわたしたちに孤独な時、忍耐の時を、賜物としてくださったのです。『共に生きる生活』のみならず、それを待ち望む生活にも、きっと恵みがあるでしょう。それは、時と時のはざまにあって、何か新しいことが始まるのを《待つ》という恵みです。

5月17日 向河原教会の信徒への手紙⑥

 神の御心によって召されてキリスト・イエスの伝道師となった小松と兄弟石丸から、向河原にある神の教会へ、すなわち、至るところでわたしたちの主イエス・キリストの名を呼び求めているすべての人と共に、キリスト・イエスによって聖なる者とされた人々、召されて聖なる者とされた人々へ。イエス・キリストは、この人たちとわたしたちの主であります。わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように。  5月17日の日曜日、それぞれの場所から主の日を思い、祈りの時を過ごしています。本来なら、今日の礼拝から私たちは再び向河原教会に集まり、礼拝を捧げようとしていました。早く礼拝ができるようになりたいという声を聞いています。「非常時」である今、向河原教会は家からでも礼拝に参加できるオンラインの方法は取らずに、教会の本来あるべき姿の礼拝ができる時まで、待つことを決断しました。同じ場所に集まることのできる日まで、もうしばらく、備えの日々を過ごしましょう。  その日に向けて、備えることの中には、礼拝再開後の生活の仕方に備えていかなくてはならないと思いました。私自身は厚生労働省が公表している「新しい生活様式」に慣れていくことがまだまだできていないと感じた出来事がありました。先日、娘の鈴の予防接種に行った時のことです。その病院では一般外来とは時間を分けていて、午後の診察は乳幼児検診と予防接種のための時間を作っています。夕方の空いている時間に行くと、私たち親子以外は誰もいませんでした。予防接種が終わり、受付で待っていると、小児医の先生が出て来て少し話すことができました。診察の時にはマスクの上に大きなゴーグルとフェイスシールドを付けた姿でしたが、ガランとした受付にはフェイスシールドやゴーグルは外して出て来ました。しっかり2メートルが取れる距離で話しました。お互いマスクをつけているので、声が聞き取りづらいことと、娘を抱っこしながら院内をなんとなく歩きながら話していて、一歩前に近づこうとしました。すると先生は身を引こうとサッと動きました。それは、先生は絶対に感染するわけにはいかない緊張感を持っているからです。多くの子どもたちの健康を守るために、今休診しているわけにはいかない。そのために、私が近づいて来るかもしれないと思った時の取るべき適切な行動でした。  そ

5月10日 向河原教会の信徒への手紙⑤

キリスト・イエスの僕である牧師・石丸と伝道師・小松から、向河原にいて、キリスト・イエスに結ばれているすべての聖なる者たち、ならびに監督たちと奉仕者たちへ。わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように。わたしは、あなたがたのことを思い起こす度に、わたしの神に感謝し、あなたがた一同のために祈る度に、いつも喜びをもって祈っています。 今回、礼拝の休止の延長の通知をお渡しすることになりました。あと2週間!という思いで待っていた方もあると思います。中には、カレンダーにマルをつけて礼拝再開の日を待ってくださっているという方もありました。申し訳ない思いです。日ごとに更新される新型ウイルスの感染状況、医療体制の状況を見ると、5月末でもまだ難しいのではないかというのが向河原教会の判断です。また、緊急事態宣言が引き続き出ている中での礼拝再開は、近隣への配慮を欠くことにもなりますので、宣言の解除を待ち、そこから十分な準備(奉仕者たちの準備の他、その暁には、お出かけになる前の検温をお願いするかもしれません。教会では消毒剤、マスクを用意します)をして「どなたでもどうぞ」と言える再開の日を待ちたいと思います。 この礼拝再開の延期という事態は、「終末の遅延」という事態と重なるのかもしれないなと思います。聖書の人々は、主の復活、主の昇天、ペンテコステの出来事の後、すぐ主は再び来られると考えていました。最初期に書かれたパウロの手紙『テサロニケの信徒への手紙1』(50年頃発行、主の復活から20年経っていない頃)には、このような言葉があります。「主の言葉に基づいて次のことを伝えます。主が来られる日まで生き残るわたしたちが、眠りについた人たちより先になることは、決してありません」(4:15)。細かなことは省きますが、パウロは少なくとも、自分の生きている間に、いよいよ主と再会する日が来ると考えていました。ここには切迫した終末的歴史観が見えます。多くの人が「その日」はあと何日と数えられるくらい近いと考えていました。 そして、そこには当然、終末後の世界ばかりを重視し、現世を否定するという極端な考えの終末思想運動とか黙示思想運動が生まれます。しかし、「その日」に期待して価値を置きすぎると、今を生きる喜びはなくなってしまいます。仮に、今なにかの問題

礼拝再開の延期のお知らせ

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礼拝再開の延期のお知らせ 礼拝の再開を延期します。 5月17日の再開を予定していましたが、新型ウイルスの影響に対応して、 休止の期間を延期し、6月14日の再開といたします。  引き続き、「向河原教会の信徒への手紙」をお送りします。

5月 3日 向河原教会の信徒への手紙④

向河原教会のみなさまへ  私たちの新たな1日、1週間が始まります。どのような毎日をお過ごしでしょうか。私は嬉しい手紙をもらいました。教会学校の子や教会の方々から手紙をもらい励ましをもらいました。    娘たちは家の外で多くの時間を過ごしています。縄跳びや、地面に絵を書いたりして、楽しみを見つけて毎日を懸命に遊び尽くしているように思います。一方で、様々な制限の中にある状況をよく理解しています。友達と遊びたくても、「コロナが落ち着いたら遊ぼうね」と少し寂しそうに声をかけあっています。  先週の手紙には、「自分には何ができるか」ということが書かれていました。私自身は慌ただしく毎日が過ぎてしまっています。生活に不可欠な仕事のために、懸命に働き続けている方々がいる中、私は日々の中で何か成果が現れたり、変化をもたらしたりできることはありません。今できることは祈ることなのだと思いました。日曜日に主を拝する時をもって、家庭礼拝や祈りを捧げることが今できる大切なことなのだと思います。けれども、祈り続けるのは難しいことです。自分の内にある思いや言葉で祈るだけでは枯渇してしまいます。そんな思いを抱いていた私に気付きと導きを与えてくれた言葉を、みなさんに届けたいと思いました。 『神の朝に向かって』 —聖句断想—という本の言葉です。私はこれを食事の前に家族で読むようにしています。 『神の朝に向かって』 聖句断想 小島誠志 教文館 ・誘惑に陥らぬよう 誘惑に陥らぬよう、起きて祈っていなさい。ルカによる福音書22章46節  ゲッセマネの園で、主イエスも誘惑に直面していました。誘惑とは迫っている激しい現実から目をそむけることであります。人は現実から目を背けて現実に負けてしまうのであります。  わたしたちは祈って現実を逃れるのではありません。祈って現実に顔を向けていくのであります。現実に顔を向けて行くという形でだけ、わたしたちは苦難を克服できるのであります。 ・危機の海で イエスは言われた。「わたしだ。恐れることはない。」そこで、彼らはイエスを舟に迎え入れようとした。すると間もなく、舟は目指す地に着いた。」ヨハネによる福音書6章20−21節  夜、荒れた海、狼狽(ろうばい)している弟子たちに主イエスは声をかけられました。  彼らがイエスを迎えようとしたと