5月10日 向河原教会の信徒への手紙⑤

キリスト・イエスの僕である牧師・石丸と伝道師・小松から、向河原にいて、キリスト・イエスに結ばれているすべての聖なる者たち、ならびに監督たちと奉仕者たちへ。わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように。わたしは、あなたがたのことを思い起こす度に、わたしの神に感謝し、あなたがた一同のために祈る度に、いつも喜びをもって祈っています。

今回、礼拝の休止の延長の通知をお渡しすることになりました。あと2週間!という思いで待っていた方もあると思います。中には、カレンダーにマルをつけて礼拝再開の日を待ってくださっているという方もありました。申し訳ない思いです。日ごとに更新される新型ウイルスの感染状況、医療体制の状況を見ると、5月末でもまだ難しいのではないかというのが向河原教会の判断です。また、緊急事態宣言が引き続き出ている中での礼拝再開は、近隣への配慮を欠くことにもなりますので、宣言の解除を待ち、そこから十分な準備(奉仕者たちの準備の他、その暁には、お出かけになる前の検温をお願いするかもしれません。教会では消毒剤、マスクを用意します)をして「どなたでもどうぞ」と言える再開の日を待ちたいと思います。

この礼拝再開の延期という事態は、「終末の遅延」という事態と重なるのかもしれないなと思います。聖書の人々は、主の復活、主の昇天、ペンテコステの出来事の後、すぐ主は再び来られると考えていました。最初期に書かれたパウロの手紙『テサロニケの信徒への手紙1』(50年頃発行、主の復活から20年経っていない頃)には、このような言葉があります。「主の言葉に基づいて次のことを伝えます。主が来られる日まで生き残るわたしたちが、眠りについた人たちより先になることは、決してありません」(4:15)。細かなことは省きますが、パウロは少なくとも、自分の生きている間に、いよいよ主と再会する日が来ると考えていました。ここには切迫した終末的歴史観が見えます。多くの人が「その日」はあと何日と数えられるくらい近いと考えていました。

そして、そこには当然、終末後の世界ばかりを重視し、現世を否定するという極端な考えの終末思想運動とか黙示思想運動が生まれます。しかし、「その日」に期待して価値を置きすぎると、今を生きる喜びはなくなってしまいます。仮に、今なにかの問題を抱えていたとしても、すべて「新しい世界」が解決してくれると思うのなら、その問題と真剣に取り組むことはなくなります。ただただ耐えれば良いものとなる。つまり、今を真剣に生き得なくなるわけです。

パウロは、そのような事態をどのように思っていたのか。同じ手紙の中に、このような言葉があります。「そして、わたしたちが命じておいたように、落ち着いた生活をし、自分の仕事に励み、自分の手で働くように努めなさい。そうすれば、外部の人々に対して品位をもって歩み、だれにも迷惑をかけないで済むでしょう」(4:11-12)。パウロは、「今」を否定し、あるいは軽視する時代にあって、なお「落ち着いた生活」をせよ、「自分の仕事」に励め、「品位を持って」歩めと言うのです。それは、人間の目に、どのように、この時代が映ろうと、人がどれだけこの世界を否定しようと、神が人となってくるほどに愛された世界、愛すべき者たちが生きる世界だからです。パウロは、今をどのように生きるべきか、神に何を期待されているかを忘れませんでした。

閑話

先ほど言った「終末の遅延」とは、主との再会の日、終末が遅れているというのではなく、わたしたちが考えているよりも、「そのとき」までは長いということです。それに対するパウロの「落ち着いた生活をせよ」という考え(勧告)は旧約の知恵文学と言われる『コヘレトの言葉』と響き合うところがあります。コヘレトは「空しい、空しい」と言って始まり、どれだけ人生に失望しているのか、と突っ込みたくなる書物です。しかし、彼の見てきた世界は、失望しても仕方のないものでした。こういう言葉があります。「この空しい人生の日々に わたしはすべてを見極めた。善人がその善のゆえに滅びることもあり 悪人がその悪のゆえに長らえることもある。善人すぎるな、賢すぎるな どうして滅びてよかろう」(コヘレトの言葉7:15-16)。まるで映画「紅の豚」の台詞「いいヤツはみんな死んだ。友よ」のような言葉です。ではコヘレトはどう生きたか。「太陽の下、人間にとって 飲み食いし、楽しむ以上の幸福はない」(8:15)。彼にとって食べ、飲み、楽しむことは神に与えられた賜物です。そして、「太陽の下、与えられた空しい人生の日々 愛する妻と共に楽しく生きるがよい」(9:9)とも言います。しかし、コヘレトは快楽主義ではありません。彼は人生を、今この時を肯定しているのです。当時の平均寿命は40歳に届かなかったと言います。家族と生きる時間は限られています。短い時間をどう過ごすか。コヘレトはこれを絶えず考えています。それだからか、彼は「労働」も「労苦」ばかりではなく「幸せ」でもあると言います。「満腹していても、飢えていても 働く者の眠りは快い。金持ちは食べ飽きていて眠れない」(5:11)と。

 「飲み食いし、楽しむ以上の幸福はない」、「働く者の眠りは心地よい」。これも「紅の豚」の台詞「さあ、モリモリ食べて、ビシバシ働こう」に通じる言葉です。飲み食い、家族の存在、働くことは、わたしたちが描く幸せに比べれば小さなものです。しかし、彼は、その小さな幸せにいつも温かい視線を注ぎます。  そして、有事の際も彼の姿勢は変わりません。何が起こるか分からないから買い占めようとコヘレトは言いません。「七人と、八人とすら、分かち合っておけ 国にどのような災いが起こるか 分かったものではない」(11:2)。彼の予測はいつも悲観的です。しかし、それが同時に、今あるものを仲間たちと分かち合えという共生への促しにつながっていくのです。

 思ったような生活ができなくて空しいと思う今、コヘレトの言葉はわたしたちに必要な言葉であると思います。宣伝になりますが、ちょうどNHK「こころの時代」で『コヘレトの言葉』の研究者・小友聡(中村町教会牧師、東京神学大学教授)による「それでも生きる~旧約聖書・コヘレトの言葉」が放送されています(第3日曜日 午前5:00-6:00、再放送・同週土曜日 午後1:00-2:00。第一回放送4/19、第二回放送5/17。全6回)。

                                
閑話休題

今週はパウロの言う「落ち着いた生活をせよ」という言葉(勧告)は、どのような生活かと考える一週間でした。わたしにとって一番落ち着かない1日は日曜日です。誰もいない礼拝堂で過ごす日曜の午前中。他の日は目をそらすことができます。しかし、この時だけは礼拝の休止を目の前に突きつけられます。けれども、同時に、立ち止まって思いを深める時間ともなっています。今週はエリヤの姿を思い出していました。列王記上にでてくる、あまり説教には取り上げられない預言者エリヤです。

エリヤは、神は生きておられるという証のために「雨は降らない」という大規模飢饉の預言をしました。しかし、衝撃的な言葉を語っておきながら、エリヤ自身は身を隠してしまいます。なぜなら、それは神の命令だったからです。「エリヤはアハブに言った。「わたしの仕えているイスラエルの神、主は生きておられる。わたしが告げるまで、数年の間、露も降りず、雨も降らないであろう。」主の言葉がエリヤに臨んだ。 「ここを去り、東に向かい、ヨルダンの東にあるケリトの川のほとりに身を隠せ。 その川の水を飲むがよい。わたしは烏に命じて、そこであなたを養わせる。」(列王記上17:1-4)

エリヤの元には数羽のカラスが朝夕とパンと肉を運んできます。「数羽の烏が彼に、朝、パンと肉を、また夕べにも、パンと肉を運んで来た。水はその川から飲んだ」(17:6)。こんなことがあるかなと思います。以前、わたしが子どもの頃、飛べなくなって庭に落ちてきたカラスに餌をやっていたことはあります(そのときは鳩の子どもだと思っていました。ずいぶん黒い鳩だなと思っていたら、カーカーと鳴き始めました)。カラスに餌をやって養うことはあったとしても、カラスに自分が養ってもらう。そんなこと、あるだろうかと思います。きっとエリシャは、初日、このパンと肉は大丈夫なのだろうかと怪しみ、次の日は、あのカラスは、また来るのだろうか、どこから肉を持ってきているのだろうかと思ったでしょう。しかし、神はわたしたちの思いもよらないことで、わたしたちを養ってくださる方なのだと思います。

わたしは、日ごとに読む聖書の言葉に増して、多くの方から頂く手紙や電話、言葉によって励まされ、養われています(もちろん、皆さまのことをカラス扱いしている訳ではありません)。その全てをここで語ることはできませんが、その中に、このように言われる方がありました。「最近は刺々しいやり取りが増えました。しかし、それは自分を試されている気がしています」。おそらく、家族とのことです。しかし、この方は、それを誰のせいにもせず、自分への試練として受け取っていると言うのです。もしも、相手のせい、この時期のせいと考えていたら出てこない言葉だなと思いました。自分が、この時であっても品位ある生活をしたいと、パウロのように願わなければ出てこない言葉です。全てを解決しくれるだろう「その日を」待たず、今を愛し、今を悔いる言葉だと思います。

教会学校の子たちからの手紙ももらいました。その手紙の中には、3月から外出を控えているので、教会には行けない。その間、「学校がお休みになってから、部屋の片付けをしたり、家族の夕食を作ったり、いつもできなかったことにチャレンジして過ごしています。」という言葉がありました。二度見してしまいました。「家族と夕食を作ったり」ではないのです。「家族の」です。「と」と「の」の意味は大きく違います。「と」とは書けない状況の中、ご家族が戦っている姿、そのご家族のためにチャレンジしているこの子の姿が浮かびます。まだ小さいと思っていたのに、いつの間にか追い抜かれてしまいました。 また、パンパンに膨らんだ封筒も届きました。開けると折り紙で作ったイースターの飾りが60個も入っていました。折り紙ならわたしにもできると思い、作ってくださったようです。礼拝再開の暁には、皆さまにお渡しできると思います。つい、自分のことばかりになってしまうし、いつも、なんだか落ち着かない。でも、この折り紙を折っているときは、みんなの顔が浮かんで楽しかったんですと言われました。この言葉を聞いたとき、これこそ、教会が大切にし、実践してきた「まず、神を第一としなさい」ということかもしれないなと思いました。「まず、神の義を求めよ」とか「まず、神の国を求めよ」、「まず、神を第一に」と言われると、どうして良いか分からなくなります。けれども、自分を2番目にしてみる。自分を2番目にして、一番は他の人のために空けておく時間を持ってみる。それは「まず、神を第一に」という言葉と響き合うことなのだと思います。もちろん、これはわたしたちが普段、意識しないで当たり前にやっていることです。ただ、それがなかなか適わない状態の中、目を留めてみたが故、これも「まず、神を第一にと同じ」という名前が付いただけのことです。

早く収束してほしい、早く落ち着いてほしい、早くはやくと焦ってしまうこの時、パウロの言葉やコヘレトの言葉から「今を見つめる」ことの大切を聞き取りたいと思います。今を見つめるからこそ気がつくことがあります。今は自分への試練の時なのではないか。自分も家族の一員ではないか。小さなことに温かい視線を注ぐとき、これまでは名もない行為であったはずなのに、たくさんのネーミングをすることができるのだと思います。

今月の教会の祈祷題を送ります。日々の祈りに加えてください。

・全世界のコロナ収束のために。

・最前線でリスクを顧みず働く人のために。

・一人一人の信仰のために。

・子どもたちの心身の健康と安全が守られるように。

  牧 師 石丸泰信
伝道師 小松美樹