5月24日 向河原教会の信徒への手紙⑦

神の御心によってキリスト・イエスのものとされた牧師・石丸から、向河原教会にいる聖なる者たち、キリスト・イエスを信頼する人たちへ。わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和があなたがたにあるように。

お変わりなくお過ごしでしょうか。疲れたという方、心配ばかりが募るという方もあるかもしれません。わたしも時々、先が見えない中に放り込まれているような気持ちになって過ごしています。

どう過ごしていますか?というのは、この世界、この事態を、どう感じて過ごしていますか?ということでもあると思います。

こう感じている方がいます。「今は『教会のコロナ捕囚』の時である。だから今は耐えるときである。やがて必ず捕囚の時は終わる。・・・だから私たちは、捕囚から解かれた後に、あのエズラ、ネヘミヤに訪れた礼拝の喜びが来ることを確信して、それをじっと待ち望むべきなのである」(「オンライン礼拝をどう考える?“教会のコロナ捕囚”」芳賀力(東京神学大学学長)キリスト新聞より)。

かつて旧約聖書の人々が経験したバビロン捕囚も、「すぐに帰れる」と思っていた多くの人の予想に反して、その期間は50年以上続きました。自国に帰還することができた人たちは、バビロンに連れて行かれた人たちの次の世代でした。長い時間が掛かりました。

確かに、今も同じだと言えるかもしれません。5月17日に予定されていた礼拝再開は6月に伸びました。さらに言えば、仮に6月14日に再開できたとしても、その日以降、すっかりそのまま、かつての通りに戻るわけではありません。おそらく、イレギュラーなことが続くと思います。もしかしたら、わたしたちの生活が元通りになるのは、次の世代になってからかもしれません。そうすると、いつまで待つのだろうか、いつまでわたしたちの「コロナ捕囚」は続くのだろうかと思います。



他方、このように言う方もいました。「かつての礼拝生活をいかに維持し、継続できるかに、心をすべて奪われてはなりません。神は今、これまでの礼拝生活を中断させました。それは、きっとわたしたちに孤独な時、忍耐の時を、賜物としてくださったのです。『共に生きる生活』のみならず、それを待ち望む生活にも、きっと恵みがあるでしょう。それは、時と時のはざまにあって、何か新しいことが始まるのを《待つ》という恵みです。」(「時のはざまに響く声」平野克己(代田教会牧師)『信徒の友6月号』)

ここで言っていることは礼拝生活の中断だけにとどまらないと思います。「神は今、これまでのわたしたちの生活全般も中断させました」と読み替えても許されるかと思います。しかし、この方は、その孤独な時、忍耐の時は、賜物であって、今、新しいことが起ころうとしている、と感じているのです。

どうして、そう言えるのか。もうすこし、丁寧に、文脈を辿りたいと思います。この方は「天使の到来」ということを言います。そして、それは、同時に《危機》の到来だ、と。

ルカによる福音書の主イエスの誕生の前を思い起こして言っています。「ナザレという町で暮らすマリアを天使が訪問しました。それは、マリアにとって《危機》の到来でした。思い描いていた人生の計画が壊され、神のご計画に巻き込まれ、イエスを胎に宿したのです。天使との格闘するような対話ののち、マリアはようやく答えます。『お言葉通り、この身に成りますように』。そして新しい人生の旅に出ます」と。

その天使は、主イエスが復活された墓でも待ち受けていました。天使は婦人たちに言います。「あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ」。そして、その知らせが、主イエスの弟子たちに《危機》をもたらしたと言います。確かにそうです。彼らは、今までの生活をやめ、聖書の言葉と共に、新しい賛美歌と共にある生活を歩み始めたからです。

そして、こう言います。「《危機》。それは、わたしたちが計画した古い時に、向こうから新しい時がぶつかってくる瞬間です。以前の時とは異なる新しい時が始まろうとしているのです。そして、この古い時と新しい時のはざまに、天使が訪れるのです。・・・あなたにもわたしにも、わたしたちの教会にも」と。

この方は、わたしたちが計画していたことを「古い時」と呼び、その予定が崩れる時を「危機」と言います。分かる気がします。スケジュール通りに成らないとき、わたしたちはイライラします。ぐずる子どもに苛立ち、自分の思い通りに動かない相手を憎ましく思います。わたしたちは、どこか、自分の予定通りに成ることこそ、人生の目的、あるいは、自分の幸せと思っています。しかし、それはわたしたちが勝手に思い込んでいるだけなのかもしれません。

わたしたちの、そういう思いに抗って、この方は、自分の小さな計画が壊されるとき、それは天使の到来の時、何か新しいことが始まるのを待つ恵みの始まりの時と言うのです。

どうして、そう言い切れるのか。キリスト者は、聖書の言葉・神の言葉を知っているからです。少なくともわたしは、この言葉が頭に浮かびました。

わたしの思いは、あなたたちの思いと異なり
わたしの道はあなたたちの道と異なると 主は言われる。
天が地を高く超えているように わたしの道は、あなたたちの道を
わたしの思いは あなたたちの思いを、高く超えている。(イザヤ書55:8-9)

少年よ、大志を抱け、みたいな言葉です。あなたが思っている以上の道を、わたし(神)は用意している。だから、小さくなるな、泣くな、とどまるなと告げている言葉です。

わたしたちの感じる幸・不幸という感覚は、自分の置かれた環境に左右されたものが多いと感じています。自分の願う環境が整っているから幸い。願う環境が整わないから不幸。しかし、父なる神が用意している幸いは、そういうことに左右されないところにある。置かれた環境の中で何を見るか。神は天使と共に、わたしたちの応答を待っているのだと思います。

石丸が手紙を送る回数が重なる度に、小難しい話ばかりになっていると感じている方もあるかと思います。申し訳ないと思いつつ、書いていますが、今回、このようなことを話題に挙げたのは、あるC.Sの子どもから、こんな手紙をもらってしまったからです。その手紙は、折り紙でした。その裏側に鉛筆で、こう書かれていました。

「石丸先生へ。最近は元気にすごしていますか。・・・石丸先生は何をしていますか?早く教会学校が始まるといいですね!!」

なんだか、天使に問われている気持ちになりました。どう過ごしていますか。この事態をどう感じていますか。今、何を見ていますか、と。

「石丸先生は何をしていますか?」。自分は、今をどのように受け止めて過ごしているだろうかと考えさせられました。

駄文をしたためたのは、それに重ねて、最近、夜眠れなくて、インターネットでダウンロードして読んだマンガ『テセウスの船』(漫画ですみません)のことがあると思います(眠れないのは、具合が悪いのではなく、夜に尋ねてくる友人の牧師がいるからです。おかげで昼夜が狂っていました。『テセウスの船』というタイトルの意味はギリシア神話に出てくるようですが、辞書やインターネット、あるいは電話でわたしに尋ねてください)。そこに出てくる主人公は、自分ではどうすることもできない過去・環境を背負って生きていました。何をしても上手くいかない。そのたびに、主人公は、「自分は、こういう運命なんだ」とつぶやいていました。けれども、あるとき、こう言うんです。「もう、『これが自分の運命だ』といって逃げるのはやめる」。「もう『これが自分の運命だ』といって自分の人生から目をそらすのはやめる」(・・・漫画、10巻を一夜で読み、ドラマも「パラビ」が2週間無料ということもあって一気に見てしまいました)。

今の状況をコロナのせい、政府のせい、○○のせいといって嘆くのは難しくありません。しかし、そういう環境の中にあっても、なお、与えられた人生から目をそらさないことは大切だと思わされました。少なくとも、この子どもたちと神の前に胸を張れる日々を過ごしたいと思いました。

まだ、語るのが許されるのなら、このことは『ジュディ・モード 地球を救う』(メーガン・マクドナルド作、ピーター・レイノルズ絵)という絵本?漫画を最近、読んだことも影響があると思います(ピーター・レイノルズという人は、2017年6月11日に礼拝の中で紹介した絵本『てん』の著者でもあります。教会のウェブページを整えておきます)。

この絵本の中で、ジュディという女の子は、地球の環境問題、特に熱帯雨林を壊すものに興味を持ちます。学校の先生から一人ひとりできることがあると聞き、ジュディは頑張ります。でも、ぜんぶが裏目に。しかし、最後には「心ある人々がほんの一握りでもいれば、必ずや世界を変えることができる」という言葉を信じて、クラスメイトの心に訴え、彼女の思いは実を結びます。その全部はここで話すことはできませんが、ジュディは、確かに、少しだけ、地球を救うヒーローになるのです。

この事態だから仕方ない。これがわたしの運命だから諦めよう。子どもだから何も動かせない。天使もジュディも、そうは思いません。何度もなんども「最近は元気に過ごしていますか?あなたは何をしていますか?」と訪ねてくるのです。

わたしは今週、今が「コロナ捕囚のとき」、ただただ待つときという気持ちと「新しいことが始まろうとしている時」、恵みの時という気持ちの両方を抱えたまま、津田山にある向河原教会の墓地に行きました(今がどんな時か、あれかこれか、ゼロか100かではないと思います。みんな、両方を抱えています。)。18日です。ある方が昨年のこの日、天に召されて1年が立った日、ご家族にとっては遠方のため、この時期、見舞うことができないことを知っていたからです。

行く前は、ジュディに影響されて、教会の墓地だけのみならず、○○家、△△家のお墓の雑草も、ぜんぶ抜いてやろうという気持ちで行きました。しかし、行ってみると、わたしの想像していた姿とは別のものがそこにありました。雑草が生え出でているだけではなく、植えられた樹木は好き放題伸び、ずいぶんワイルドな出で立ちがそこにはありました。墓地を甘く見ていたわたしの装備にはハサミはなく、ただただ雑草を抜くことしかできませんでした。

多すぎて、その日、一日では抜ききることはできませんでしたし、○○家の番地をどうしても思い出せなかったため、本来の目当ての○○家の墓にはたどり着けませんでした(その日の夕方には番地を伺いましたし、5月中には剪定鋏をもってリベンジをするつもりです。大丈夫です)。

そういう情けない1日でしたが、なんだか、涙が溢れそうな1日でもありました。わたしは、向河原教会に来て8年ほどになりますが、こんなに雑草が生えた状態を見たことがなかったからです。数年前まで、3-4月のイースター礼拝の後に教会墓地で墓前礼拝をしていました。近年は11月の永眠謝記念礼拝の午後、墓前礼拝をしていますが、そのときは、いつも、綺麗な墓地がわたしたちを迎えてくれていました。

どういうことかというと、そういう記念日が教会に、いつ来ても良いように、ある奉仕者の方々は(わたしの預り知らないときに)墓地に来て(きっと電車で、わたしが忘れた大きなハサミを持って)、このやりたい放題の雑草を抜いてくれていたということです。

 知らない花も咲いていました。あとで聞いたら「しゆり」という花だそうです。この時期でないと咲いていない花です。

時間を掛けて、そういう一つひとつのことを考えていると、自分の想像以上に、教会を愛している方がいたこと(そして、それ以上に、わたしや教会に来る方たちにとっての当たり前と考えることを整えるために、あたかも当然のように、当たり前ではない大変なことを日々、自身の環境に左右されることもなく、あるいは左右されつつも尚、これは必要なこと、と思い支えてくれていたこと)に、嬉しくもなり、申し訳なくもなりました。この方々は、神が咲かした、わたしの知らない花をきっとたくさん見てきた方です。

こういうことを思い返すと、

わたしの思いは、あなたたちの思いと異なり
わたしの道はあなたたちの道と異なると 主は言われる。
天が地を高く超えているように わたしの道は、あなたたちの道を
わたしの思いは あなたたちの思いを、高く超えている。(イザヤ書55:8-9)

という言葉が迫ってきます。いかに狭い思いの中で考えていたか。あなたが思っている以上の道を、わたし(神)は既に用意していてくださいました。ただ、わたしが気がつかなかっただけです。

この手紙をしたためているとき、ある方が訪ねてきて教えてくれました。この教会に集えないとき、その代わりに送っている手紙を、普段、もう教会に来られない方も、来ていない方も読んでいて、いろいろ思い出して、会いたくなって、楽しみにしていると。もしも、ウェブ礼拝をしてそれでよいということにしていたら、起こらなかった出来事です(ウェブ礼拝は視聴する・しないの自由はありますが、クラシックな手紙は、届くと、つい開いて読んでしまうのかもしれません)。これも、わたしたちが思っている以上の事でした。

加えて、ある方から、毎週、教職から、一方方向の手紙が届くけれども、教会に集う方々の思いも聞きたいという手紙が届きました。確かにそうだと思います。いつも、わたしや小松先生ばかりです。教会に届けられた皆さまからの手紙を紹介する時もありますが、わたしのフィルターを通して、解釈された言葉になってしまっています。

もしも、よろしければ、今をどのように感じているか。とか、この手紙への返信でも構いません。それを教会の方々とも共有したいと思う方がありましたら、匿名希望でも、手書きの手紙をわたしがタイプしなおすでも、どんな注文でも構いませんが、その旨、伝えた上で返信くださると嬉しいです。

「みなさまは最近は元気にすごしていますか。

・・・何をしていますか?早く教会が始まるといいですね!!」

「みなさまは最近は元気にすごしていますか。
・・・何をしていますか?早く教会が始まるといいですね!!」

牧 師 石丸泰信
伝道師 小松美樹