5月17日 向河原教会の信徒への手紙⑥

 神の御心によって召されてキリスト・イエスの伝道師となった小松と兄弟石丸から、向河原にある神の教会へ、すなわち、至るところでわたしたちの主イエス・キリストの名を呼び求めているすべての人と共に、キリスト・イエスによって聖なる者とされた人々、召されて聖なる者とされた人々へ。イエス・キリストは、この人たちとわたしたちの主であります。わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように。

 5月17日の日曜日、それぞれの場所から主の日を思い、祈りの時を過ごしています。本来なら、今日の礼拝から私たちは再び向河原教会に集まり、礼拝を捧げようとしていました。早く礼拝ができるようになりたいという声を聞いています。「非常時」である今、向河原教会は家からでも礼拝に参加できるオンラインの方法は取らずに、教会の本来あるべき姿の礼拝ができる時まで、待つことを決断しました。同じ場所に集まることのできる日まで、もうしばらく、備えの日々を過ごしましょう。

 その日に向けて、備えることの中には、礼拝再開後の生活の仕方に備えていかなくてはならないと思いました。私自身は厚生労働省が公表している「新しい生活様式」に慣れていくことがまだまだできていないと感じた出来事がありました。先日、娘の鈴の予防接種に行った時のことです。その病院では一般外来とは時間を分けていて、午後の診察は乳幼児検診と予防接種のための時間を作っています。夕方の空いている時間に行くと、私たち親子以外は誰もいませんでした。予防接種が終わり、受付で待っていると、小児医の先生が出て来て少し話すことができました。診察の時にはマスクの上に大きなゴーグルとフェイスシールドを付けた姿でしたが、ガランとした受付にはフェイスシールドやゴーグルは外して出て来ました。しっかり2メートルが取れる距離で話しました。お互いマスクをつけているので、声が聞き取りづらいことと、娘を抱っこしながら院内をなんとなく歩きながら話していて、一歩前に近づこうとしました。すると先生は身を引こうとサッと動きました。それは、先生は絶対に感染するわけにはいかない緊張感を持っているからです。多くの子どもたちの健康を守るために、今休診しているわけにはいかない。そのために、私が近づいて来るかもしれないと思った時の取るべき適切な行動でした。

 その後、私はある反省を思い出しました。向河原教会が休会する前の最後の礼拝、4月5日ことです。礼拝中は席の間隔を空けて座りました。マスクもしていて、向かい合うこともありません。けれども、礼拝の後は来会された方と会えたことに嬉しくなり話をしました。その時、マスクをしているからお互いに声が聞き取りづらくて、つい距離が近くなっていたことを反省しました。その後、教会内で感染したという話が出なかったから幸いですが、思い返せば礼拝の後に一緒に祈った方とも、いつものように向かい合い、近づいて小さな声で祈りました。教会内はみんなで触れるものが多いので、娘に触る前やおしゃぶりに触れる時、おやつをあげる時、手を洗うこと・消毒する回数が多すぎて面倒に思いました。教会の入り口や受付周りは数人立つだけで広い間隔は取れません。そうしたこれまでの生活習慣や教会での癖を見直して、再び礼拝に集まることができる時、以前のままではない、相手のためと自分と家族、周りの人々のために距離を保った集いをしていくことへと改めていかなくてはならないと今感じています。今までのことができなくなるというのは少し寂しくもあるかもしれません。けれども教会は、目に見える部分では、絶えず変わりゆくものであると思います。試練を通して私たちの礼拝への思いと教会が成長していく時なのだと思います。

 また、4月5日の礼拝の中で「コロナウィルスは人と人との繋がりを壊そうとしているものだと思う」ということ、また「教会は人と人との繋がりをつくるもの」という話がありました。教会だけでなく、神学校・キリスト教主義の学校の中でもそのことに苦悩し模索しているように思います。

 私が昨年卒業した東京神学大学は3月の休校以来、入学式は中止となり、先日まで休校していました。一般大学と違い、人と会うという事を大切にしていた東神大は、勉学の時間に打ち込む他、クラスでの懇談会や全学年での集会も大切にしていました。行事のための委員会があり、委員会によって運動会や全学祈祷会、懇談会も行なっていました。学生からは行事や委員会のために勉強の時間が削られて辛いという意見もあったほどです。神学の学びに重きを置いているからこそ、逆説的ですが、人との交わりが希薄にならないよう努めていた東神大でも、様々な集会を行うことができなくなりました。授業もついにオンライン授業という形を取らざるを得ない状況があります。

 あるキリスト教主義の小学校では「イエスさまと3密(さんみつ)」という手紙が子どもたちに送られました。その手紙には、今こわい病気が流行っているので家にいること、この病気は人から人へと移るものであり、密閉、密集、密接を避けなければならないこと、そして小学校の中には「3密」が沢山あって、教室での勉強、一緒に遊ぶこと、歌を歌うこと、給食を食べること、手を繋ぐこと、おしゃべりすること、それが全部危ないことであるのだと書かれています。それらが禁止されるのは、子どもたちにはとても寂しいことだと思います。

 続けてこのようなにも書いてあります。

『人と人との間の目に見える長さのことで、心まで離れていってしまいそうです。人と人との繋がりにとって「3密」がどんなに大切だったか、今ならとてもよくわかります。でもこんな時だからこそイエスさまと「3密」です。

「キリストの言葉があなたがたの内に豊かに宿るようにしなさい。(コロサイの信徒への手紙3:16)」

 この言葉は学校が5月に大切にする聖書の言葉です。私たちがイエスさまと「3密」しようと頑張らなくても、もうイエスさまの方から、わたしたちに「3密」してくださっています。』

 この手紙の中にある、「人と人との間の目に見える長さのことで、心まで離れていってしまいそうです」というのは本当にそうだと思います。今までは親しければ近づいて話に行く習慣があったのに、あえて距離を取って話さなければならないのです。学校・友人だけではなく、教会でも同じであると思います。教会で会うことができなくなった今、関係性が希薄になったわけではないのに、自宅で一人取り残されているような思いを抱くことがあるかもしれません。礼拝が再開してからも、教会でゆっくり喋らずに自宅に帰ることや、集会や食事が一緒にできないことがまだ続くかもしれません。教会の中での交わりがどんなに大切だったかよくわかります。

 イエス・キリストのご生涯は、人に手を差し伸べ、共に食卓を囲み、独りの人を放っては置かれないものでした。面倒と思われることに時間をかけるお方でした。そして私たちの中に入り込んできてくださる方です。目に見える人との関わりや教会の形が変わっても、主イエスの命による私たちの繋がりがあります。祈りの度に、主イエスの姿を思い起こして、主イエスと教会との密なる関係を深めていくことができますように。密なる祈りの交わりによって、今私たち一人ひとりに主がお示しになる事柄を受け止めて、そのことのために立ち上がる力を得させていただくことができますようにと祈っています。

 詩編126編には最も良いものはまだ私たちには知り得ぬ将来にあることを歌っています。忍耐や悲しみの今に押しつぶされることなく、進む先を見つめて祈りの時を持っていてください。

 「涙と共に種を蒔く人は

  喜びの歌と共に刈り入れる。

  種の袋を背負い、泣きながら出て行った人は

  束ねた穂を背負い

  喜びの歌をうたいながら帰ってくる。」 (詩編126編5−6節)

 5月17日の日曜日、礼拝再会を待つとともに、私たちの日常の手を止めて、家庭礼拝の中で、一人静かに捧げる祈りの中で、主イエス・キリストとの密なる関係を深めていく時となりますように。

 向河原教会は台風の後の修繕が少しずつ進んでいます。会堂入口の床板の張り替えがされるのと同時に床下に残っていた泥水を掃除し、消毒することができました。その作業のために、散らかっていた集会室も随分片付きました。床の張替え後に遊びにきた子どもたちは、「綺麗だから」と言って、入口で靴を脱いで教会に入っていました。綺麗になった会堂を楽しみにしていてください。

伝道師 小松美樹
牧 師 石丸泰信