5月 3日 向河原教会の信徒への手紙④

向河原教会のみなさまへ

 私たちの新たな1日、1週間が始まります。どのような毎日をお過ごしでしょうか。私は嬉しい手紙をもらいました。教会学校の子や教会の方々から手紙をもらい励ましをもらいました。

   娘たちは家の外で多くの時間を過ごしています。縄跳びや、地面に絵を書いたりして、楽しみを見つけて毎日を懸命に遊び尽くしているように思います。一方で、様々な制限の中にある状況をよく理解しています。友達と遊びたくても、「コロナが落ち着いたら遊ぼうね」と少し寂しそうに声をかけあっています。

 先週の手紙には、「自分には何ができるか」ということが書かれていました。私自身は慌ただしく毎日が過ぎてしまっています。生活に不可欠な仕事のために、懸命に働き続けている方々がいる中、私は日々の中で何か成果が現れたり、変化をもたらしたりできることはありません。今できることは祈ることなのだと思いました。日曜日に主を拝する時をもって、家庭礼拝や祈りを捧げることが今できる大切なことなのだと思います。けれども、祈り続けるのは難しいことです。自分の内にある思いや言葉で祈るだけでは枯渇してしまいます。そんな思いを抱いていた私に気付きと導きを与えてくれた言葉を、みなさんに届けたいと思いました。『神の朝に向かって』—聖句断想—という本の言葉です。私はこれを食事の前に家族で読むようにしています。



『神の朝に向かって』聖句断想 小島誠志 教文館

・誘惑に陥らぬよう

誘惑に陥らぬよう、起きて祈っていなさい。ルカによる福音書22章46節

 ゲッセマネの園で、主イエスも誘惑に直面していました。誘惑とは迫っている激しい現実から目をそむけることであります。人は現実から目を背けて現実に負けてしまうのであります。
 わたしたちは祈って現実を逃れるのではありません。祈って現実に顔を向けていくのであります。現実に顔を向けて行くという形でだけ、わたしたちは苦難を克服できるのであります。

・危機の海で

イエスは言われた。「わたしだ。恐れることはない。」そこで、彼らはイエスを舟に迎え入れようとした。すると間もなく、舟は目指す地に着いた。」ヨハネによる福音書6章20−21節

 夜、荒れた海、狼狽(ろうばい)している弟子たちに主イエスは声をかけられました。
 彼らがイエスを迎えようとしたときに舟は「目指す地に着いた」といわれています。危機の海で、そのただ中に立ちたもう主イエスの声を聞けるかどうか-そこに信仰生活の勝敗はかかっています。

・中にある光

あなたの中にある光が消えていないか調べなさい。ルカによる福音書11章35節

 わたしたちはいつも、自分のまわりが暗いといって嘆いています。しかし大事なことはまわりが暗いか明るいかということではありません。
 自分の中に光があるかどうかということであります。中に一点の光があればどんなくらい場所にも道を見出すことができます。

・導きの星

わたしたちは東方でその方の星を見たので拝みに来たのです。マタイによる福音書2章2節

 三人の博士のささげ物ー黄金、乳香、没薬はそれぞれの出身地を示しているといわれています。それぞれ肌の色が違ったという説もあります。
 三人は旅の途上で出会い、一緒に歩きはじめました。彼らが見上げていた導きの星が彼らを出会わせたのです。共通の高みに目を上げること、それが人間をふかく結びつけるのです。わたしたちの出会いは趣味や好みによるものではありません。神を拝することにおいて結びつけられているのです。

・ささやく声

風の中に主はおられなかった。風の後に地震が起こった。しかし地震の中にも主はおられなかった。地震の後に火が起こった。しかし火の中にも主はおられなかった。火の後に静かにささやく声が聞こえた。 列王記上19章11—12節

 激しい風や地震、火の中に神はおられませんでした。歴史の激動の中に、明らかにわかる形で神のみ心があらわされることはありません。神のみ心はこちらが耳を済ませなければ聴くことはできません。神はいつも、一人ひとりに語りかけられてくださる方だからであります。

・城壁崩落

信仰によって、エリコの城壁は、人々が回りを七日間回った後、崩れ落ちました。ヘブライ人への手紙11章30節

 エリコの町の守りは鉄壁でした。闘って勝つ力は神の民にはありませんでした。彼らは城壁の外をぐるぐると七日間回りました。七日目、回り終えて、ときの声を上げると城壁は崩れ落ちました。押せども引けどもびくともしない状況があります。しかし信仰者はあきらめません。その周りを執念ぶかく回るのです。祈りながら。いつか時が満ちて、「七日目」が来て、城壁は崩れます。信仰は自力で勝ち進む道ではありません。

・ときが来れば

ときが巡り来れば実を結び 詩編1編3節

 季節がめぐって木々は実をみのらせるのであります。暑さも寒さも、雨も風もくぐらなければなりません。時が必要です。よく待ち通したものが人生の実りをみのらせることができるのです。
 結果を急いですべてを台なしにしてはなりません。木々にみのりの季節があるように、神はだれにでも、それぞれのみのりの時を備えてくださるのです。



 この手紙を受け取り、みなさんが主がお定めになった日を思って祈る時、それぞれの仕方で主を礼拝するときです。聖餐の食卓を共にできる時を待ち望みます。主日の礼拝に教会へと集うことができない今、言葉にならない思いを抱えながら、しぼりだすように祈っているかもしれません。それぞれの祈りの中で、家庭礼拝の中で主と出会えますように。

 今週の教会学校の聖書日課を送ります。最初期の教会の人々の様子が記されています。主イエスを信じた人々は喜びをもって主から受けた恵みを分けあっています。今の私たちの社会に向けられたメッセージであると思いました。教会の子どもたちに、この災害の中、主が与えてくださる恵みを喜んで分け合って暮らす教会の姿を伝えていきたいと願います。

 5月3日の日曜日は、向河原教会最年少のメンバーである鈴が1才になります。鈴の毎日は世の中の混乱など関係ありません。子どもを成長させてくださったのは主です。ウィルスの感染拡大が社会全体の全世界の不安を招いています。病によって死を招いています。けれども、その中において、新しい命をも主は与えておられます。

 主が私たちに生きよとお与えくださる新しい一日が始まります。主のみ言葉はわたしたちの道の光です。主の御腕に抱かれていることを思い起こす1日1日でありますように。

聖 書:使徒言行録4章32—37節
32 信じた人々の群れは心も思いも一つにし、一人として持ち物を自分のものだと言う者はなく、すべてを共有していた。33 使徒たちは、大いなる力をもって主イエスの復活を証しし、皆、人々から非常に好意を持たれていた。34 信者の中には、一人も貧しい人がいなかった。土地や家を持っている人が皆、それを売っては代金を持ち寄り、35 使徒たちの足もとに置き、その金は必要に応じて、おのおのに分配されたからである。36 たとえば、レビ族の人で、使徒たちからバルナバ――「慰めの子」という意味――と呼ばれていた、キプロス島生まれのヨセフも、37 持っていた畑を売り、その代金を持って来て使徒たちの足もとに置いた。

 小松美樹
 石丸泰信