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2022年9月4日主日礼拝
「祈りの家」小松 美樹 牧師
マタイによる福音書 21章12~17節

【ネットは <Youtube>】   「そこで売り買いをしていた人々を皆追い出し、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けを倒された。」 。他の福音書では腰掛けがひっくり返し、両替の金をまき散らした、と主イエスの感情的な面が記されています。  神殿は、私たちにとっての教会です。その神殿の境内で人々が、売り買いし、両替人、鳩を売る者がいました。 ユダヤの三大祭の過越祭のために、地方から大勢集まって来ていた時期でした。過越の祭りの祭儀のためには動物やお金が必要でした。今でも、神社で絵馬を買って願いを書き、捧げるお金を綺麗なものを用意するように、当時は、傷のない完全な動物の捧げものが必要でした。捧げる動物を連れて旅するのは大変ですので、捧げる場所の近くで買うのが合理的です。墓地の近くにお花屋さんがあるのと同じです。近所の花屋よりちょっと高いかもしれないけど、花も傷まず、移動が楽です。 「両替人」 は、日常に使われていたローマの貨幣を、ユダヤのシュケル銀貨に替えなければなりませんでした。どれも礼拝のために必要なものなのです。けれども、両替には手数料がありました。神殿の費用に使われるほかに、両替人の取り分にもなります。動物を売るのも、誰でも商売したのではなく、神殿の祭司との関係者が独占できたようです。礼拝の必要を満たすためだけには留まらなかったのです。礼拝のための準備に熱心であった人たちが、間違えたのです。長老会でも、教会の中でも、何事にも開始する時、祈ります。「父なる神様」と、神の御心を求める祈り無しには、間違えてしまうのです。    「わたしの家は祈りの家と呼ばれるべきである」 。この主イエスの言葉は旧約聖書の預言書の言葉から取られています。一つは「わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる」(イザヤ56:7)。もう一つは「わたしの名によって呼ばれるこの神殿は、お前たちの目には強盗の巣窟と見えるのか。そのとおり。わたしにもそう見える、と主は言われる。」(エレミヤ7:11)。大勢の人々が礼拝に集まる様子を見ながら語られた言葉です。神の名によって呼ばれる神殿が、祈りの場所ではなく、強盗の巣窟のように見える。そこでは、人々は少しも主なる神の御心を祈り求めず、ただ形だけは信仰深い装いをしているのです。宗教行事を行なっているのにも関わらず、神の御心を問うことを忘れたものとなってい

2022年8月28日主日礼拝10時30分
「ろばに乗った柔和な王」小松 美樹 牧師
マタイによる福音書 21章1~11節

【ネットは <Youtube>】  主イエスがろばに乗って、エルサレムへと向かわれる場面です。エルサレム入城と言われます。ヨハネによる福音書では、棕櫚の枝・なつめやしの枝をもって、迎えに出たとあり、この出来事を、「棕櫚の主日」と呼ぶようにもなりました。  群衆は、主イエスの前を行く者も後に従う者も叫び、 「ダビデの子にホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。いと高きところにホサナ。」 と記されています。華やかな、主イエスのエルサレムに入城されたこの出来事を、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの4つの福音書の全てが記しています。エルサレムに向かいうのは、十字架へと向かうためです。ここから主イエスの地上のご生涯の最後の一週間が始まります。マタイ福音書は、その一週間の出来事を21章から27章にかけて記しています。   2000年前のイスラエルは戦いに敗れた後、首都エルサレムを始めとする、主な都市は外国の軍隊に占領され、民衆は重税に苦しみました。そして人々は、革命とメシアを待ち望んでいました。そのメシアは権威に満ち、必ず戦いに勝利し、ダビデ王国の繁栄を再現する者として期待されていました。主イエスはそのようなエルサレムに入城して行きました。   「主がお入りようなのです。」 。預言者の預言の言葉が成就し、実現するために必要なことでした。その預言は「娘シオンよ、大いに踊れ。娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者 高ぶることなく、ろばに乗って来る 雌ろばの子であるろばに乗って。」(ゼカリヤ書9:9)。「娘シオン」は都エルサレムのことを指し、そこに「あなたの王が来る」と、エルサレムの王の到来、ダビデの子である救い主の到来を示しています。  ろばは、馬もよりも小さく、低く、華やかさも早さも無い、軽蔑されるような劣った動物とみられます。けれども、主イエスは王として「柔和な方で、ろばに乗って」来られるのです。「柔和な」というのは、預言の旧約聖書の言葉では「高ぶることなく」となっています。柔和とは高ぶらず、謙遜ということです。ろばに乗ってエルサレムに来られる王とは柔和で謙遜な王なのです。また、「柔和」は優しさや柔らかさを表す言葉です。穏やかに、優しく。誰もがそうあることができたどんなに良いだろうかと思うのではないでしょう

2022年8月21日主日礼拝
「神の憐みのうちに」 上野峻一 先生
マタイによる福音書20章29~34節

【ネットは <Youtube>】  今日の説教のテーマは「憐れみ」です。説教題も「神の憐れみのうちに」といたしました。今日の聖書は、まさに神の憐れみを知らされる出来事です。はじめにマタイ福音書第20章29節 「一行がエリコを出ると、大勢の群衆が従った」 と始まります。エリコとは、エルサレムの東北約20キロにある古い町です。イエスさま一行は、エルサレムに向かって旅をしていました。同じくマタイ福音書第20章17節には、「イエスはエルサレムに上っていく途中」とあります。いよいよ福音書は、イエスさまのエルサレム入城、そして受難と十字架というクイマックスを迎えます。エリコからエルサレムまでは、一日あれば歩いて行くことができます。もし早朝出発したとすれば、お昼頃には着いてしまうほどの距離です。出発の時刻は書いてありませんが、恐らく今日の箇所から第21章17節までのことが、時間にしては一日の間に起こったと考えられます。   一日のはじめ、エリコを出発する朝、主イエス・キリストによって、神の憐れみの出来事が起こりました。 大勢の群衆が、主イエスに従って、エリコの町を出ます。すると、エリコの町の門のところでしょうか。二人の盲人が道ばたに座っていました。彼らは、イエスというお方を知っていたのです。イエスがお通りと聞いて彼らは、叫びます。 「主よ、ダビデの子よ、わたしたちを憐れんでください。」。 「憐れみ」という言葉を辞書で引くと、慈悲や同情、悲しみという意味が出てきます。実際、日本語では、「憐れみ」を漢字で変換すると、「哀しい」という文字になります。そこには、どこか、もの悲しい、寂しさや切なさを感じさせるニュアンスがあります。「わたし」という存在が、「他者」に対して感じるプラスではなく、マイナスの感情のように思います。いや、むしろ、他者に対して、しっかりとマイナスの感情を抱いて欲しい、感じるべきだという言葉のようです。それは、自分の心が、相手の心と、しっかりと関わることを意味しています。 「憐れんでください」 という言葉には、どこか「共感してほしい」「わかってください」という訴えに似ています。   主イエスは、この二人の盲人の叫びを聞き、立ち止まり、二人を呼ばれます。主は、問われます。 「何をしてほしいのか。」 。二人が憐れみを求め、叫び続ける想いが、何をしてほしいからなのかと

2022年8月14日主日礼拝「変革者、僕になる」 小松美樹 牧師
マタイによる福音書20章17~28節
教会学校 9時半から

【ネットは <Youtube>】  主イエスはエルサレムへ上っていく途中で、十二人の弟子たちだけを呼び寄せて3度目の受難予告を話されました。主イエスが死と復活を再び打ち明けられた、大事な話をした 「そのとき」 に、弟子のある母が主の前に願い出たのです。ゼベダイの息子たちとは、ヤコブとヨハネです。  「王座にお着きになるとき、この二人の息子が、一人はあなたの右に、もう一人は左に座れるとおっしゃってください」 。主イエスが王として即位されるとき、王に次ぐ高い地位を求めたのです。子を思う親の願いです。弟子たちはこれまでも、誰が一番偉いかと議論していたことがありました。この2人の弟子は、ペトロと並んで、主イエスの近くに仕えた者たちです。十二人の弟子たちの中で、中心的な役割を担ったと見られます。だから、あのペトロよりも上に置かれたいという願いでしょう。 「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。このわたしが飲もうとしている杯を飲むことができるか」 。2人はためらうことなく 「できます」 と答えます。 「ほかの十人の者はこれを聞いて、この二人の兄弟のことで腹を立てた」 。つまり結局は12人とも、その思いに大した違いはないのでしょう。  聖書が記す12人の弟子の姿は、弟子代表、信徒の代表の姿であり、私たちの姿です。 私たちの人との関係の中で、多くの問題となるのは、誰が上か下かということがあると思います。上に見られれば嬉しくなり、下に見られることで苦しさを覚えます。「どうして私がこんな目に合わなくてはいけないのか。」、「なぜ、この人に従わなければならないのか」、「自分の意見の方が正しい」、「下手に出ていれば、調子にのって」と、従うことよりも、人を従わせようということに思いが向いてしまうのです。   この時、弟子たちは主のお語りになる受難の意味、苦しみをまだ知りませんでした。またその後の復活のことも。神から特別な力を与えられた主イエスは、その力によって、自分たちの生活を変え、悪を抑え込む力を発揮してくれるだろうと、弟子たちは思っていたはずです。そういう救いを求めているから、こそ、身近な関係の中にも、力関係、優劣が、問題が気になるのでしょう。けれども、主イエスの救いはそうしたものからほど遠いところにあります。 キリストの成さる救い、権威というのは分かりにくいもの

2022年8月7日主日礼拝
「天の国の話」石丸泰信先生
マタイによる福音書20章1~16節

【ネットは <Youtube>】  「ぶどう園の労働者のたとえ」は天の国のたとえです。聖書は、天の国は人が死んでから「行く」ところとは言いません。むしろ聖書は、天の国が「来た」と語ります。天の国、つまり、天の神が主権を持って支配をされるところ。それがわたしたちの世界で始まった。だから、そこに生きる者になりなさい、と聖書は語っているわけです。それぞれの国にその国独特の生き方があるように、天の国には天の国の生き方があります。  天の国での労働、務めとは何か。とても変わった話がここに描かれています。 ある主人はぶどう園で働く労働者を雇うために夜明けに出かけてゆき、1デナリオン(一日分の賃金)を渡す約束をし、人々をぶどう園に送りました。さらに主人は9時、12時、3時、5時にも広場に行って同じようにします。日が暮れて賃金を渡すとき、主人は監督に「最後に来た者から始めて、最初に来た者まで順に賃金を払ってやりなさい」と言いました。  不思議な順番です。後に来た人が優先されて、先に来た人が後にされるのです。5時頃雇われた人が、最初に1デナリオンを受け取りました。これを見た人々は喜びます。我々は「もっと多くもらえるだろう」。けれども、渡されたのは同じ1デナリオンでした。彼らは言います。『最後に来たこの連中は、一時間しか働きませんでした。まる一日、暑い中を辛抱して働いたわたしたちと、この連中とを同じ扱いにするとは。』 この不平は共感するところがあると思います。  なぜ主イエスは、こんな話をしたのでしょう。直前の「金持ちの青年の話」では、弟子のペトロは「わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました。では、わたしたちは何をいただけるのでしょうか」と尋ねています。続く「ヤコブとヨハネの願い」では、二人の母親がやってきて、息子たちを特別扱いしてほしいと願い出ます。誰もが列の先頭に立ちたいと願っている時に、主は、このたとえ話をされたのです。あなたたちは対価を受け取る側にとっての相応しさを求めている。けれども、与える側は、誰に対しても同じように与えたいし、与えているのだ。それが天の国の主人の思い、与える側の思いなのです。 この視点で読み直すと気がつくところがあります。主人はいつも「何もしないで広場に立っている人」を探しているのです。そして、ぶどう園に送る。このやり取りが、この譬えで