2022年8月14日主日礼拝「変革者、僕になる」 小松美樹 牧師
マタイによる福音書20章17~28節
教会学校 9時半から

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 主イエスはエルサレムへ上っていく途中で、十二人の弟子たちだけを呼び寄せて3度目の受難予告を話されました。主イエスが死と復活を再び打ち明けられた、大事な話をした「そのとき」に、弟子のある母が主の前に願い出たのです。ゼベダイの息子たちとは、ヤコブとヨハネです。

 「王座にお着きになるとき、この二人の息子が、一人はあなたの右に、もう一人は左に座れるとおっしゃってください」。主イエスが王として即位されるとき、王に次ぐ高い地位を求めたのです。子を思う親の願いです。弟子たちはこれまでも、誰が一番偉いかと議論していたことがありました。この2人の弟子は、ペトロと並んで、主イエスの近くに仕えた者たちです。十二人の弟子たちの中で、中心的な役割を担ったと見られます。だから、あのペトロよりも上に置かれたいという願いでしょう。「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。このわたしが飲もうとしている杯を飲むことができるか」。2人はためらうことなく「できます」と答えます。「ほかの十人の者はこれを聞いて、この二人の兄弟のことで腹を立てた」。つまり結局は12人とも、その思いに大した違いはないのでしょう。

 聖書が記す12人の弟子の姿は、弟子代表、信徒の代表の姿であり、私たちの姿です。 私たちの人との関係の中で、多くの問題となるのは、誰が上か下かということがあると思います。上に見られれば嬉しくなり、下に見られることで苦しさを覚えます。「どうして私がこんな目に合わなくてはいけないのか。」、「なぜ、この人に従わなければならないのか」、「自分の意見の方が正しい」、「下手に出ていれば、調子にのって」と、従うことよりも、人を従わせようということに思いが向いてしまうのです。 

 この時、弟子たちは主のお語りになる受難の意味、苦しみをまだ知りませんでした。またその後の復活のことも。神から特別な力を与えられた主イエスは、その力によって、自分たちの生活を変え、悪を抑え込む力を発揮してくれるだろうと、弟子たちは思っていたはずです。そういう救いを求めているから、こそ、身近な関係の中にも、力関係、優劣が、問題が気になるのでしょう。けれども、主イエスの救いはそうしたものからほど遠いところにあります。 キリストの成さる救い、権威というのは分かりにくいものだと思います。普通、権威というものはもっと分かりやすく、権力、権限、自由という意味を持ちます。しかし、キリストの権威は「神の子」であることにあります。信じさせるために、奇跡を行えば皆ついて来たでしょう。しかし、主はそれを望まず、自分のために奇跡を行う方ではありませんでした。主は最も権威とはかけ離れた十字架刑の姿で権威と救いを現されました。

 「あなたがたも知っているように、異邦人の間では支配者たちが民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。…あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい」。私たち、弟子たちは、世の救いは上へ上へといくことであり、それが輝かしく見えてしまいます。そうした価値の中に生まれ育ってきたのですから。けれども、主は、救いのために、下へ下へと降るお方です。主がどん底の王座につく時、私を、右に、左においてください。と願うのなら、同じところに立たなければならないのです。

 主イエスは言われました。 「人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように。」。主イエスにとっても簡単ではありません。十字架にかけられる前の晩に、主は祈られました。「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。」(26:39)。この杯は主が、過ぎ去らせて欲しいと願われた杯です。上へと高められるものではなく、人の下へ下へと向かうことは、周りの人々との関係だけでなく、神からの使命無くしては耐えられないものなのです。自分の願いとの戦いがあります。人に仕えようとするあなたに、家族から妨げる言葉が聞こえてくることもあるでしょう。自分が仕えること、人の下へとへりくだることに耐えられなくなるでしょう。社会の目が、僕の自分の姿を蔑むかもしれません。そうした試みにあうのです。神の言葉から離れ行く自分の罪との戦いです。主イエスが祈られたように、私たちも、「試みにあわせず、悪より救い出したまえ」と祈り続けていなければ耐えられないでしょう。いかにして充実した生活をするか、人から認められるかという目、社会の目、価値観をひっくり返す方が、私たちのところに降りてきたのです。

  「同じように」。主イエスのように、身代わりの命となるのではありません。相手を蔑まず、見下さない主イエスの姿と同じように、最も身近な人たちに、仕え、主イエスの愛を手渡していくのです。主イエスと同じように、愛によって、皆に仕える僕となりなさいと言われるのです。