2022年8月7日主日礼拝
「天の国の話」石丸泰信先生
マタイによる福音書20章1~16節

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 「ぶどう園の労働者のたとえ」は天の国のたとえです。聖書は、天の国は人が死んでから「行く」ところとは言いません。むしろ聖書は、天の国が「来た」と語ります。天の国、つまり、天の神が主権を持って支配をされるところ。それがわたしたちの世界で始まった。だから、そこに生きる者になりなさい、と聖書は語っているわけです。それぞれの国にその国独特の生き方があるように、天の国には天の国の生き方があります。

 天の国での労働、務めとは何か。とても変わった話がここに描かれています。 ある主人はぶどう園で働く労働者を雇うために夜明けに出かけてゆき、1デナリオン(一日分の賃金)を渡す約束をし、人々をぶどう園に送りました。さらに主人は9時、12時、3時、5時にも広場に行って同じようにします。日が暮れて賃金を渡すとき、主人は監督に「最後に来た者から始めて、最初に来た者まで順に賃金を払ってやりなさい」と言いました。

 不思議な順番です。後に来た人が優先されて、先に来た人が後にされるのです。5時頃雇われた人が、最初に1デナリオンを受け取りました。これを見た人々は喜びます。我々は「もっと多くもらえるだろう」。けれども、渡されたのは同じ1デナリオンでした。彼らは言います。『最後に来たこの連中は、一時間しか働きませんでした。まる一日、暑い中を辛抱して働いたわたしたちと、この連中とを同じ扱いにするとは。』 この不平は共感するところがあると思います。

 なぜ主イエスは、こんな話をしたのでしょう。直前の「金持ちの青年の話」では、弟子のペトロは「わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました。では、わたしたちは何をいただけるのでしょうか」と尋ねています。続く「ヤコブとヨハネの願い」では、二人の母親がやってきて、息子たちを特別扱いしてほしいと願い出ます。誰もが列の先頭に立ちたいと願っている時に、主は、このたとえ話をされたのです。あなたたちは対価を受け取る側にとっての相応しさを求めている。けれども、与える側は、誰に対しても同じように与えたいし、与えているのだ。それが天の国の主人の思い、与える側の思いなのです。 この視点で読み直すと気がつくところがあります。主人はいつも「何もしないで広場に立っている人」を探しているのです。そして、ぶどう園に送る。このやり取りが、この譬えでは繰り返されます。

 働くということは、主人の必要を満たすことになります。けれども、同時に、務めを持つ者の必要をも満たすのです。 働く、務めを持つ、何かに責任的に生きること。それ自体が神の賜物です。直接にお金を得るものばかりではありません。家族を支えること、学ぶこと、待つこと、送り出すこと、祈ること。それぞれの人に時宜に適った形の務めがあります。そして、それは神から与えられた贈り物としての時間です。やっと務めを得られた人は、自分の務めの有り難さが分かる。しかし、早朝から働く人にはそれが分からなかった。単に賃金を得る手段にしか過ぎないとしか思えないからです。だから、夕方から働いた人が1デナリならば「暑い中を辛抱して働いた」者が、それ以上を手にして当然と思い、不平を訴えます。

 それに主人は、こう答えました。「わたしは最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか。それとも、わたしの気前のよさをねたむのか」。これを直訳すると「わたしが気前が良いので、あなたの目が悪いのか」となります。働きの少ない者が1デナリを貰ったのを見て欲を膨らませて、目を悪くしたのです。それで大切なことが見えなくなったのです。 働きを持つこと、それ自体に恵みを見いだせなくなって、対価を得る手段にしか見えなくなるとき、聖書は「目が悪い」と言います。ペトロは主イエスに「では、わたしたちは何をいただけるのでしょうか」と尋ねましたが、きっと主イエスは「もう沢山のものをもらっているよ」と言いたかったのでしょう。オズの魔法使いのような話ですが、わたしたちも学校で学ぶとき、何か報酬を得られるから学んでいるだけではないと思います。そこで共に学ぶ。それ自体が喜びです。人が夫婦になるとき、将来、何か得られることを条件にはしません。共に生きる、それ自体が喜びです。贈り物です。 そういうことを忘れてしまうと、せっかく天の国はすぐ近くに来たのに、誰もそこに行きたいと思わないのです。

 この「ぶどう園の労働者のたとえ」に続きがあったとしたら、明日、人々は何時に広場にやって来るだろうかと思います。聖書は繰り返し言っています。「収穫は多いが、働き手が少ない」(9:37)。 

  ある3人の石工の話があります。石工が石を切っていると、通りかかった人が尋ねます。「何をしているのですか」。一人目は答えます。「石を切っています。自分の生活のためです」。二人目は「家族のために働いています」と答えます。三人目は、こう答えました。「神殿を造っています。いつできるか、分かりません。でも、神を礼拝する神殿を造る、それ自体、私にとって礼拝なのです」。わたしたちの日ごとの務めは小さなものです。しかし、そこに何を見るか。この不思議な譬えは、それに気がつかせてくれます。