2022年8月28日主日礼拝10時30分
「ろばに乗った柔和な王」小松 美樹 牧師
マタイによる福音書 21章1~11節

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 主イエスがろばに乗って、エルサレムへと向かわれる場面です。エルサレム入城と言われます。ヨハネによる福音書では、棕櫚の枝・なつめやしの枝をもって、迎えに出たとあり、この出来事を、「棕櫚の主日」と呼ぶようにもなりました。

 群衆は、主イエスの前を行く者も後に従う者も叫び、「ダビデの子にホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。いと高きところにホサナ。」と記されています。華やかな、主イエスのエルサレムに入城されたこの出来事を、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの4つの福音書の全てが記しています。エルサレムに向かいうのは、十字架へと向かうためです。ここから主イエスの地上のご生涯の最後の一週間が始まります。マタイ福音書は、その一週間の出来事を21章から27章にかけて記しています。

  2000年前のイスラエルは戦いに敗れた後、首都エルサレムを始めとする、主な都市は外国の軍隊に占領され、民衆は重税に苦しみました。そして人々は、革命とメシアを待ち望んでいました。そのメシアは権威に満ち、必ず戦いに勝利し、ダビデ王国の繁栄を再現する者として期待されていました。主イエスはそのようなエルサレムに入城して行きました。

  「主がお入りようなのです。」。預言者の預言の言葉が成就し、実現するために必要なことでした。その預言は「娘シオンよ、大いに踊れ。娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者 高ぶることなく、ろばに乗って来る 雌ろばの子であるろばに乗って。」(ゼカリヤ書9:9)。「娘シオン」は都エルサレムのことを指し、そこに「あなたの王が来る」と、エルサレムの王の到来、ダビデの子である救い主の到来を示しています。

 ろばは、馬もよりも小さく、低く、華やかさも早さも無い、軽蔑されるような劣った動物とみられます。けれども、主イエスは王として「柔和な方で、ろばに乗って」来られるのです。「柔和な」というのは、預言の旧約聖書の言葉では「高ぶることなく」となっています。柔和とは高ぶらず、謙遜ということです。ろばに乗ってエルサレムに来られる王とは柔和で謙遜な王なのです。また、「柔和」は優しさや柔らかさを表す言葉です。穏やかに、優しく。誰もがそうあることができたどんなに良いだろうかと思うのではないでしょうか。時間と心に余裕があれば。能力に余裕があれば。と考えた経験がある人もいるかもしれません。 

 マタイ福音書を続けて読んでいると、5章の山上の説教で「柔和な人々は幸いである」(5:5)と主イエスは人々に、そして聖書を読む私たちに教えておられます。そこでは、詩編37編11節の言葉が背景にあります。こちらの山上の説教での意味合いも見てみたいと思います。 「柔和」という言葉は詩編では「貧しい人」となってます。柔和は、貧しいの意味を持っていました。また、しなやかにたわむもの。しなやかにたわむことで、外からの圧力によって折れない、貧しい者の強さがあるのです。 主は山上の説教の中で、困難が待ち受ける日々を生きる、私たち自身にも、柔和であるようにと語られました。必ずやってくる困難の中に、しなやかさを持ち、耐えなさいと。そうして、神の国の幸せを継ぐ者となるようにと言われました。

  今、困難の道へと進まれる主イエスは、その困難を受けるため、柔和でしなやかな姿で進まれます。この時のエルサレムの王や、国を支配し、自分の力に頼る王、高い所に留まり、力でねじ伏せる、王ではなく、神の御言葉に従い、神の御前を歩まれる方が、身を低くして、私たちの王となられるための道を進みます。その道に従うとき、私たちも、仕える者として歩みます。

  長老の中に、礼拝後の会堂掃除で、お手洗いの掃除を自分が引き受けるのだという姿勢で真っ先に向かわれる方がいます。トイレ掃除が汚いものだとか、下の者がやる仕事という考えはないかもしれません。けれども、少なくとも、屈みながら行ったり、礼拝のために着てきた服に、トイレの水が跳ねたりするかもしれません。そういうものを引き受けようとする、仕える姿をいつも見ています。感謝の思いと共に、信仰者の姿を見ます。 「ホサナ」とは「救いたまえ」という意味を持ちます。主を救い主とし、受け入れる私たちは、権力でもなく、強いリーダーシップでもない、主イエスを信頼して進みます。神の御心がどのように現わされようと、主イエスの柔和の中に現わされる、愛の強さを見出し、主に習い、仕える者として信頼しついて行くのです。