2022年8月21日主日礼拝
「神の憐みのうちに」 上野峻一 先生
マタイによる福音書20章29~34節

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 今日の説教のテーマは「憐れみ」です。説教題も「神の憐れみのうちに」といたしました。今日の聖書は、まさに神の憐れみを知らされる出来事です。はじめにマタイ福音書第20章29節「一行がエリコを出ると、大勢の群衆が従った」と始まります。エリコとは、エルサレムの東北約20キロにある古い町です。イエスさま一行は、エルサレムに向かって旅をしていました。同じくマタイ福音書第20章17節には、「イエスはエルサレムに上っていく途中」とあります。いよいよ福音書は、イエスさまのエルサレム入城、そして受難と十字架というクイマックスを迎えます。エリコからエルサレムまでは、一日あれば歩いて行くことができます。もし早朝出発したとすれば、お昼頃には着いてしまうほどの距離です。出発の時刻は書いてありませんが、恐らく今日の箇所から第21章17節までのことが、時間にしては一日の間に起こったと考えられます。

  一日のはじめ、エリコを出発する朝、主イエス・キリストによって、神の憐れみの出来事が起こりました。 大勢の群衆が、主イエスに従って、エリコの町を出ます。すると、エリコの町の門のところでしょうか。二人の盲人が道ばたに座っていました。彼らは、イエスというお方を知っていたのです。イエスがお通りと聞いて彼らは、叫びます。「主よ、ダビデの子よ、わたしたちを憐れんでください。」。「憐れみ」という言葉を辞書で引くと、慈悲や同情、悲しみという意味が出てきます。実際、日本語では、「憐れみ」を漢字で変換すると、「哀しい」という文字になります。そこには、どこか、もの悲しい、寂しさや切なさを感じさせるニュアンスがあります。「わたし」という存在が、「他者」に対して感じるプラスではなく、マイナスの感情のように思います。いや、むしろ、他者に対して、しっかりとマイナスの感情を抱いて欲しい、感じるべきだという言葉のようです。それは、自分の心が、相手の心と、しっかりと関わることを意味しています。「憐れんでください」という言葉には、どこか「共感してほしい」「わかってください」という訴えに似ています。

  主イエスは、この二人の盲人の叫びを聞き、立ち止まり、二人を呼ばれます。主は、問われます。「何をしてほしいのか。」。二人が憐れみを求め、叫び続ける想いが、何をしてほしいからなのかと、改めて確認するのです。二人は答えます。「主よ、目を開けていただきたいのです。」二人の願いは、たった一つです。それは、目を開けて欲しい、見えるようになりたいということでした。もしかしたら、この願いは、二人にとって真実の願いではあるが、しかし既に諦めてしまっていた願いであったかもしれません。けれども噂に聞く、この方だけは、イエスさまだけは違うと、彼らは本当の願い、切なる想いを込めて、主イエスに答えました。主イエスは、この答えを聞き、深く憐れんで、その目に触れられます。

  今日の聖書において、最も重要だとされる一節があるとしたら、それは、34節でしょう。なぜなら、そこには、二人の盲人の願いが聞き入れられ、奇跡が起こったという単純な結末が記される以上に、聖書が記す神さまの想いが語られているからです。イエスさまは、この二人の盲人を「深く憐れんで」とあります。「深く憐れんで」という言葉は、新約聖書の原典のギリシャ語では、その前の二人の盲人が「憐れんでください」と叫んだ言葉とは、まったく違う言葉が使われています。「深く憐れむ」とは、自分自身が痛む、内臓がねじれるような思いという意味です。この言葉は、キリストの有名なたとえ話、善きサマリア人や放蕩息子の父親など、神の憐れみ、神の痛みを表現します。つまり、本人以上に神ご自身、イエスさまご自身が「痛む」のです。これは、神の愛の姿そのものです。愛するがゆえに起こることなのです。

  主イエスは、二人の盲人の叫びを聞き、深く憐れみ、その目に触れられ、見えるようにされます。この二人も、また主イエスに従いました。ところが、この後、エルサレムで、イエスさまを待ち受けている受難、そして、あの十字架においては、誰一人として、イエスさまに従う者はいませんでした。すべての者が、主イエスを見捨て、すべての重荷を彼に負わせて逃げていくのです。それが、私たち人間です。どれだけ願いを聞き入れられ、どれだけ助けられ、どれだけ愛されても、私たちは、神に背く罪人なのです。しかし、イエスさまは、そのことを、すべてご存知でした。それでも尚、いや、それゆえにこそ、私たちを深く憐れまれ、私たちの痛みをご自分の痛みとして、十字架への道を進まれます。私たちの苦しみを、私たち以上に痛んでおられます。これこそが、神の憐れみです。この神の憐れみのうちに、私たちは生かされているのです。