投稿

6月, 2022の投稿を表示しています

2022年6月26日主日礼拝
「迷子を探し回る神」小松 美樹 牧師
マタイによる福音書 18章10~14節

【ネットは <Youtube>】  主イエスのたとえ話を聞きました。絵画も多くあり、主イエスと羊が豊かな緑の中にいる絵や、羊を抱えておられる主イエスの情景が浮かぶようです。迷い出た1匹を探しに行く、羊飼いと羊の良い信頼関係が伺えるような思いがします。けれども、実際は牧草や水の乏しい地方でした。緑が一面に広がっているのではなく、岩場に僅かな草を見つけるのです。そのような、草が生え、水辺があり得るところには猛獣も来ます。牧者は警戒しながら水辺を探し、羊を導きます。その導きがなければ、羊は谷間に落ちたり、猛獣に狙われる危険がありました。また、羊飼いはたいていの場合、他の人が所有者で、羊を預かっているのです。お金持ちの所有する羊を預り、育て、それで賃金を得ていました。自分の報酬に関わりましたので、羊飼いたちは皆羊を大切にします。しかし、それでも所詮、他の人の所有なので、命を懸けてまで守ろうとしません。羊飼いには命を懸けるほどの責任は負わされていないのです。   マタイ福音書に記される羊と羊飼いの話は「迷い出た」と記されます。「これらの小さな者を一人でも軽んじないように気を付けなさい。」という前置きがあって語られています。18章は教会に向けられて語られ、そこには「小さな者」というキーワードがありました。教会の中で、また教会に集う人々が、人との関わりの中で、隣人に接するときのこととして語られているのです。 隣人と接する時「軽んじてはいけない。」。また、その人を軽んじる時、一人一人に天使がいて、その天使をも軽んじることになりますし、「小さな者」など神の前にはおらず、私たちが「小さく扱う者」のことを言っているのです。そのことを忘れてはいけないという警告のよう語られます。   迷い出た一匹の羊は、神から離れ、群れから出たものです。迷い出た羊ですから、迷子なのです。先に語られていた「子供」(18:3-5)として捉えるならば、迷子は致命的です。教会に向けられて語られているという点から見れば、教会を出て、神の元を離れ、迷子なのです。本来いるべきところに居ないのです。神から離れていることを聖書は罪といいます。罪人の状態で、平安もないのです。迷い出て、孤独の羊。本来いるべき場所から離れているとき、自分らしさを模索するでしょう。迷い出た羊には、そういう小ささがあるのだと思います。また、

2022年6月19日主日礼拝
「放ってはおけない」小松 美樹 伝道師
マタイによる福音書 18章6~9節

【ネットは <Youtube>】  マタイの18章は教会の教えが記されています。それは、共同体についてであり、教会生活の手引きとも言えるでしょう。18章の教会の教え、手引きの第一は、「心を入れ替えて、子供のようにならなければ…天の国に入ることはできない。」(18:3-)でした。心を入れ替えるとは、悔い改めることであり、これまで自分自身の心の声に耳を傾けて生きてきたことから、視線を、また体全体を神の方へと向き直って生きることです。  しかし、それを「子供のように」と言われます。それは、新しく生まれ変わらなければ、子供のようにはできないだろうと思います。主イエスを信じ、洗礼により、新しく生まれ、新しい命に生きる者となりなさいと言われているのでしょう。 6節からは、「子供」ではなく、「小さな者」と言われています。それは、私たちが評価していないもの。存在の小さなもの。偉いと思っていない存在でしょう。相手を小さく見るとき、私たち自身の存在が大きくなっているのだと思います。そして、相手は、無くても良い、取るに足らない存在となっているのです。そこには、他者への見方を間違えている姿が映し出されます。私自身が裁く者、評価する者になってしまっているのです。その結果、「小さな者の一人をつまずかせる」。そのことに気が付きなさいと言うのです。  厳しい、警告です。「わたしを信じる者の一人」をつまずかせることへの警告の言葉です。 「つまずく」とは、主イエスを信じる信仰から逸れていってしまうことです。また、人の信仰の妨げとなってしまうことについても言われています。人を信仰から引き離す原因を作ってしまうことの災いが語られています。  「大きな石臼を首に懸けられて、深い海に沈められる方がましである」。「深い海」は、ユダヤ人にとって、神から最も遠く、離れており、荒廃した恐るべきところでした。「地獄」は神との断絶です。旧約聖書のヨナ書では、海の底に沈むヨナは「陰府の底から、助けを求めると」(2:3)と記されています。ヨハネの黙示録では、救いの完成である新天新地について、「わたしはまた、新しい天と新しい地を見た。最初の天と最初の地は去って行き、もはや海もなくなった」(21:1)とあります。天の国とは海のないところであるようです。深い海に沈められるというのは、天の国とは真逆の所へ向かうのです。そのよ

2022年6月12日合同礼拝
「天の国でいちばん偉い者」小松 美樹 伝道師
マタイによる福音書 18章1~5節

【ネットは <Youtube>】  合同礼拝を捧げています。6月の第2主日は、教会の暦で「花の日・子どもの日」と定め、多くの教会で、合同礼拝を捧げています。私たちも、教会学校の子どもたちと大人と一緒に礼拝を捧げています。子どもたちを招き、囲い、礼拝しています。  「子どもの日」と定めを持つ記念をするほどに、子どもたちを招くことの難しい時代がありました。教会がそのように定め、子どもの日礼拝を大切に覚えるのは、主イエスのお示しになったことが形となったからでしょう。  主イエスは子どもを大人の所有物となさらない方でした。弟子たちが主イエスに「いったいだれが、天の国でいちばん偉いのでしょうか」と尋ねました。「そこで、イエスは一人の子供を呼び寄せ、彼らの中に立たせて、言われた。『はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。』 「子供のようにならなければ」。このことの指すのはどういう意味かと様々に問われてきました。純粋とか、懸命など、私たちの思う子供の姿もあるでしょう。けれども、そうしたイメージの子供を大人が受け入れてあげるのだ、という話ではありません。  子どもはどんな存在なのか。子どもの性格は様々ですが、必ず言えることは、助けてもらわなければ生きられない存在です。社会では、大人というのは自立した存在だと言えるでしょう。子どもはそうではありません。自立できません。必ず人の助けがなければ成長できません。人の助けなく、大人になった人はいないはずです。 「子供のようにならなければ」。それは、人に助けてもらう存在なのだということを知ることです。けれども、それは大人も同じです。ましてや、社会的な助けではなく、天の国では、神の助けなしには入ることすらできないのです。 子どものようになる人が、主イエスを受け入れることができるのです。主イエスの助け無く、神を知り、天の国に近づくことはできません。 私たちは、自分の罪にも気づかないでいます。知らぬ間に、主イエスがその罪を担ってくださっていたということ、主イエスの命のあがないを後から知ったのです。 「心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。自分を低くして、この子供のようになる人が、天の国でいちばん偉いのだ。」 「大人なんだから、頼らない様にしよう」。「大人

2022年6月5日主日礼拝
「新酒に酔う」石丸 泰樹 先生
使徒言行録 2章1~13節

【ネットは <Youtube>】  聖霊降臨日の記念すべき礼拝です。「ペンテコステ」は「七五三」のように、50のお祝いとして名詞がそのまま名前になりました。この時、人々は、ユダヤ教の 「五旬祭」 (旧約聖書における十戒の授与(出エジプト20章))。のために集まっていました。     五旬祭 は、奴隷から解放され、神様から自由を与えられた人々が、自由になり、どのように生きていくかということ。自由になると、思いや行動もバラバラになり、我儘になることが心配された。そこで「どのような生き方をしていくか」。そのために十戒が与えられました。 学校では、生徒に自由を与えると、何をし始めるかわからないから、制服を着せたり、髪形も決まりを設け、制限をかけるという時代が長く続きました。大人の思う枠を与え、枠にはめようとする動きがあったのです。   国際連合が、第二次世界大戦後にできました。みんながひとつになって、それぞれの主権を認めていく。しかし、民族主義、国家主義、イデオロギーを自分たちの中心に置くようになりました。歴史は幾度も、一つにまとまっていこう、互いに支え合っていこう。と考えながらも、そうなりませんでした。宗教も、自分の宗教を絶対化し、他の宗教を認めない、とすると、対立します。   神の霊が人々の上に注がれて、そこから新しい有様がうまれました。新しい酒に酔っているのではないかと言う人と、そうではないと言う人々がいました。その後、弟子たちを中心にイエス・キリストの福音を延べ伝えていく地中海世界に広がっていく活動が使徒言行録にあります。その弟子たちの教えの一番の中心にあるのは「主イエス・キリストにあって一つ」。「父なる神にあって一つ」ということです。 今も世界の人々がどうやったら一つになることができるか、考え、手探りしているのです。  パウロもエフェソの信徒への手紙の中に「平和の絆でむすばれて、霊による一致を、愛によつ忍耐を」、「愛による忍耐」について語ります。喜んで忍耐するのです。我慢する忍耐ではありません。キリスト学校の先生は、生徒に忍耐を持って接します。神からのミッションに生きる学校だからです。愛することは我慢することではありません。古代のギリシャでは、忍耐と言うことを「卑劣な態度が忍耐」と思われていた。聖書は、「神が忍耐しておられるのは愛のゆえだ」と記します。忍耐