2022年6月5日主日礼拝
「新酒に酔う」石丸 泰樹 先生
使徒言行録 2章1~13節

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 聖霊降臨日の記念すべき礼拝です。「ペンテコステ」は「七五三」のように、50のお祝いとして名詞がそのまま名前になりました。この時、人々は、ユダヤ教の「五旬祭」(旧約聖書における十戒の授与(出エジプト20章))。のために集まっていました。

   五旬祭は、奴隷から解放され、神様から自由を与えられた人々が、自由になり、どのように生きていくかということ。自由になると、思いや行動もバラバラになり、我儘になることが心配された。そこで「どのような生き方をしていくか」。そのために十戒が与えられました。 学校では、生徒に自由を与えると、何をし始めるかわからないから、制服を着せたり、髪形も決まりを設け、制限をかけるという時代が長く続きました。大人の思う枠を与え、枠にはめようとする動きがあったのです。 

 国際連合が、第二次世界大戦後にできました。みんながひとつになって、それぞれの主権を認めていく。しかし、民族主義、国家主義、イデオロギーを自分たちの中心に置くようになりました。歴史は幾度も、一つにまとまっていこう、互いに支え合っていこう。と考えながらも、そうなりませんでした。宗教も、自分の宗教を絶対化し、他の宗教を認めない、とすると、対立します。 

 神の霊が人々の上に注がれて、そこから新しい有様がうまれました。新しい酒に酔っているのではないかと言う人と、そうではないと言う人々がいました。その後、弟子たちを中心にイエス・キリストの福音を延べ伝えていく地中海世界に広がっていく活動が使徒言行録にあります。その弟子たちの教えの一番の中心にあるのは「主イエス・キリストにあって一つ」。「父なる神にあって一つ」ということです。 今も世界の人々がどうやったら一つになることができるか、考え、手探りしているのです。

 パウロもエフェソの信徒への手紙の中に「平和の絆でむすばれて、霊による一致を、愛によつ忍耐を」、「愛による忍耐」について語ります。喜んで忍耐するのです。我慢する忍耐ではありません。キリスト学校の先生は、生徒に忍耐を持って接します。神からのミッションに生きる学校だからです。愛することは我慢することではありません。古代のギリシャでは、忍耐と言うことを「卑劣な態度が忍耐」と思われていた。聖書は、「神が忍耐しておられるのは愛のゆえだ」と記します。忍耐は愛と一つになったものだと積極的に伝えるようになりました。

  聖霊が降ることによって、イエス・キリストは、「あなたがたは神と共にいるようになる」と、語ってくださいました。「…わたしを信じる人々のためにお願いします。父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたがたの内にいるように、すべての人を一つにしてください。」(ヨハネ17:20―)。この言葉は、世界の教会協議会ができたときの標語になりました。また、23節には、「わたしは彼らの内におり、あなたがわたしの内におられるのは、彼らが完全に一つになるためです。」。キリストが弟子たちの中にいること、一人一人の中にキリストが宿る形で、信仰を持っていて教会に集うだけでなく、キリストと父なる神とがひとつにある。そのように弟子たちも、そして世界も一つとしてください。

  産業革命になり世の中が変わっていきました。働き手がいないため、田舎で、青年たちを呼んでくるのです。ロンドンで働くとどうなるか。安い給料で肉体労働をさせられるから、青年たちの生活が荒れてくる。子どもたちもそのような社会のなかで、窃盗をし始める。子どもたちの窃盗集団ができはじめました。そのころにイギリスでYMCAという団体ができました。この子どもたちを放っておけない。子どもたちは苦しんでいる。YMCAという団体ができて、翌年、YMCAの大会が開かれました。そこで標語となったのが先ほどの聖書の言葉です。「すべての人を一つにしてください。」。日本のYMCAも、また牧師も海外に行きました。少年たちに健全な教育、共に生きる、ルールを持ってスポーツをする。そのことを教えてほしいと言われたのです。

  聖霊が降ることによって、一人一人の中に神様が宿ってくださる。神さまの愛の力が宿ってくださるようになる。使徒言行録2章にある、子どもも、大人も、外国人も、すべての人が神の教えに従って生きるようになるのです。

  「風」は「聖霊」と訳されることがあります。「神の霊が水の表を動いていた。」(創1:1)。風が自由に私たちのこころの内に来てくださるのです。エゼキエル書では、風が吹くと、枯れた骨になっていた人たちが、すべて生きた人になります。アメリカで奴隷とされる黒人の方たちが歌った「ドライ・ボーン」(DryBones)という歌。枯れた骨が一つ一つ集まり、足になり、体になり、腕になり、頭になり、人間の形になる。その時、神の風が吹いて、群衆になる。日本でも様々な人が歌いました。日本の人の心に届いたのでしょう。原爆によって骨さえも残らなかった人たち。戦争にいった家族が亡くなり、その骨さえも戻らなかった。箱が送られてきて、石が入っている。戦友が、戦地の石を拾って入れて送ってくれた。日本の新しい社会、人権と尊厳を守る社会を目指すように歌われました。 生きること。それが私たちの息をすること、息を吹き返すことが生きていることの証の一つになるわけです。聖霊が降ることによって、神の命の呼吸が続くのです。教会が迫害を受けたとしても、私たちの地上の生涯が終わっても、神様の、教会の命の呼吸は続きます。