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2022年5月29日主日礼拝
「神の子も税金を納める」小松 美樹 伝道師
マタイによる福音書 7章22~27節

【ネットは <Youtube>】   「あなたたちの先生は神殿税を納めないのか」 。神殿税は、年に一度、過越の祭りの頃、徴収する者が各家庭を訪れて集めたと言われます。この時、カファルナウムにあるペトロの家にも、神殿税を集める者たちがやって来てペトロに尋ねました。そこで主イエスはペトロに尋ねます。 「地上の王は、税や貢ぎ物をだれから取り立てるのか。自分の子供たちからか、それともほかの人々からか」 。地上の王は、自分の子供たちからは税金を取り立てないように、天の王の子供たちも、納税の義務に対して、自由であるはずだと言われます。つまり、神の御子である主イエスは神殿税を納める必要はない。しかし、本来ならば、神殿税を納める必要がないはずの神の御子が、それを納めようとされる。   「子供たちは納めなくてよいわけだ」 。この 「納めなくてよい」 の言葉の元の意味は、「解放されている、自由である」ということです。主イエスは「子供たちは自由だ」と言われました。 「子供たち」 は、主イエスのことだけでなく、その場にいるペトロのことも含め「神の子」と言っておられるのです。 聖書は、主イエスを信じ、神の子とされる人は、自由であると言います。神を「父」と呼び、私たちは「子」とされたのです。神の愛の中に生きる時、人の目や考え、自分自身の思いから解放され、恐れや不安からの自由になります。けれども、その自由を私たちの生活と切り離したものとして捉えたり、関係性を崩すようなことに使ってはいけません。  先日、教会も町内会費を修めました。その会費は様々な使われ方をしますが、この地域の神社での活動のためにも用いられることと思います。日本で生活すれば、日本の生活の習慣、地域の活動、習慣もあります。その地に生まれたり、転居して、その一員として数えることで、守られていたものが多いのだと思います。またそれによって支えられる豊かな関係性があると思います。教会はこの地域に根差すものとして、町内活動や費用を一緒に支えていくことは、大切なことでしょう。けれども、そこには教会の自由な選択があります。町内会費を納めることは強制ではありません。けれども、納めます。納めなければ、人の目があるでしょうか?みんな入っているのに、「教会さんは…」と言われるから納めるのではありません。伝道のために「是非」という気持ちです。 「しか

2022年5月22日主日礼拝
「できないことは何もない」 上野 峻一 先生
マタイによる福音書 17章14~20節

【ネットは <Youtube>】   「もし、からし種一粒ほどの信仰があれば、この山に向かって、『ここから、あそこに移れ』と命じても、そのとおりになる。あなたがたにできないことは何もない。」 そのように、主イエスは言われます。本当にそうでしょうか…と、思った時点で、からし種一粒ほどの信仰もないのでしょう。恐らく、ここにいた弟子たちもそうだったと思います。どうやら、この時、弟子たちは、自分たちに「信仰がない」という現実を思いっきりつきつけられたのです。からし種という植物が、どのようなものか知っていると、更に落ち込みます。今で言うと、ゴマをイメージします。そのゴマの十分の一くらいでしょうか。そもそも、そこにあるかどうかもわからない小さなものです。それくらいの信仰があれば、山に向かって「ここから、あそこに移れ」と命じても、そのとおりになると言われます。これは、例えかもしれません。それくらい「ものすごいことができる」に例えられたと考えます。子どもの頃、この話を聞いて、素朴に、イエスさまは山を動かすことができる方だと思っていました。確かに、湖の上は歩くし、パンは増やすし、水をぶどう酒に変えられるし…何でもできることが聖書に書いてあります。しかし、さすがに山は無理だろ、これは例えかもしれない…と、こう思っている時点で、やはり「信仰がない」のかもしれません。だから、もう一度、考え直して、改めて、神の子であるイエスさまなら何だってできます。絶対に山だって動かせるのです。   ある人が、主イエスのところへ、弟子たちが使えないことを報告しに来た時、イエスさまは、このように言われました。 「なんと信仰のない、よこしまな時代なのか。」 。 「よこしま」 というのは、「ひん曲がった」という意味です。世の中が、この時代が、ひん曲がっていると言われます。曲がってしまって、正しい方へと向いていないのです。神さまではなく、他のものに向いて、真の神ではないものを神としています。神に背く不信仰な時代です。それは、私たちの今も同じです。神さまの言葉に聴くこともなく、世の中の価値観は、聖書が証しする神さまとはまったく違うものです。伝道困難な時代、福音が伝わらない現代だとも言われます。ところが、どうやら、イエスさまが地上の生涯を歩まれた時も、不信仰な曲がった時代、信仰のないよこしまな時代だったのです

2022年5月15日主日礼拝
「変化を受け止めることができるか」小松 美樹 伝道師
マタイによる福音書17章1~13節

【ネットは <Youtube>】   「イエスの姿が彼らの目の前で変わり、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった」 。旧約聖書のシナイ山でのモーセの出来事と重なるように、その時の光景が浮かぶような描き方がされています(出エジプト34:28-)。また、これは復活の主イエスの姿です。  弟子たちは主イエスに「私についてきなさい」と言われ、従い歩むようになりました。けれども、その歩みの先に何があるのか、主は何もお教えになっていませんでした。「エルサレムに行って…殺されて、三日目に復活することになっている」(16:21)。主に従うことは、苦しみと十字架の死がある。けれども、同時に復活も待っているのです。墓の中に向かう歩みではありません。弟子たちの歩みは復活の主イエスを見る歩みです。主はここで、その姿を先取りして弟子たちに見せられました。  先のことを見せる。それは将来を見通すことです。旧約聖書にはそうした神のビジョンがいくつも描かれています。聖書は幾度も、私たちに歩みの先を、先取りして見せようとしています。 本日の聖書はマルコ福音書(9:2-)、ルカ福音書(9:28-)にも並行記事があります。そして、その直前には、主イエスが、死と復活について語られ、よく似た書き方がされています。しかし、それぞれの特徴もあります。マタイには 「六日の後」 とあります。 ペトロの信仰告白から一週間。神が世界を創造された七日間であり、安息された日。神を賛美し、礼拝する日に起きた出来事だとマタイは記します。礼拝の中で復活の主と出会うのです。   「モーセ」 は旧約聖書の律法を代表する人物で、 「エリヤ」 は預言者として代表する人物です。律法と預言は旧約聖書全体を指す、その代表的な二人と主イエスが語り合う、驚く光景を弟子たちは見ました。その素晴らしさを記念するかのように、仮小屋を建てようと言うのです。しかし、そんなことが求められているのではありません。神の声が響きました。 「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」 。御子主イエスの言葉を「聞くこと」。これが求められているのです。   3人の弟子だけが連れて行かれ、見ることができました。けれども、それは3人が特別だったのではありません。主に呼ばれ、その声に従った者は誰でも、主の復活のお姿を目にすることができるのです。聖

2022年5月8日主日礼拝
「神の目に映る命の重み」
小松 美樹 伝道師
マタイによる福音書16章21~28節

【ネットは <Youtube>】 受難予告と呼ばれる箇所を読みました。主イエスが受難予告を語り始めたのは、 「このときから」 とあります。ペトロが主イエスを「あなたはメシア、生ける神の子です」(16:16)と言った時です。その時、主イエスは「御自分がメシアであることをだれにも話さないように、と弟子たちに命じられた。」(16:20)。それは、主イエスがメシアであることが、本当の意味で理解できるのは、受難の、救い主とはかけ離れた姿を知ってからなのです。  「長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている」。 これを聞いたペトロは「とんでもないことです」と否定しました。そのペトロに、主イエスは振り向いて、 「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている。」 と言われました。厳しい言葉だと思いますが、主イエスはペトロを嫌い、怒っているのではなく、正しいところへと戻そうとしておられるのです。主イエスの後ろに居るペトロに 「引き下がれ」 と言われました。あなたは私の後ろにいなさいと、言っています。ペトロの気持ちが主イエスの前に出ていたからです。   「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」 。 「自分を捨て」 とは自分の思いを捨てて、主イエスに付いて行くことです。主イエスに付いていくことで、自分の負うべき十字架も見えてくるのだと思います。主イエスに従うことは、主イエスの教え、思いにそぐわない自分自身の姿を見つめずして歩めないからです。   「自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る。」 。自分の命、思いにしがみついている者は、それを失うが、わたしのために命を(自分の思いを)失う者は、それを得ると言い換えることができるでしょう。なぜそのように言われるのか。 「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。」 と主は言われます。私たちが間違ったこ所に立ち、懸命に生きようとする中では、時に土台から崩れてしまうでしょう。自分の価値観、人の価値観の中に、埋もれてしまうからです。輝いて、活躍しているときは良いでしょう。しかし、自分