2022年5月22日主日礼拝
「できないことは何もない」 上野 峻一 先生
マタイによる福音書 17章14~20節

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 「もし、からし種一粒ほどの信仰があれば、この山に向かって、『ここから、あそこに移れ』と命じても、そのとおりになる。あなたがたにできないことは何もない。」そのように、主イエスは言われます。本当にそうでしょうか…と、思った時点で、からし種一粒ほどの信仰もないのでしょう。恐らく、ここにいた弟子たちもそうだったと思います。どうやら、この時、弟子たちは、自分たちに「信仰がない」という現実を思いっきりつきつけられたのです。からし種という植物が、どのようなものか知っていると、更に落ち込みます。今で言うと、ゴマをイメージします。そのゴマの十分の一くらいでしょうか。そもそも、そこにあるかどうかもわからない小さなものです。それくらいの信仰があれば、山に向かって「ここから、あそこに移れ」と命じても、そのとおりになると言われます。これは、例えかもしれません。それくらい「ものすごいことができる」に例えられたと考えます。子どもの頃、この話を聞いて、素朴に、イエスさまは山を動かすことができる方だと思っていました。確かに、湖の上は歩くし、パンは増やすし、水をぶどう酒に変えられるし…何でもできることが聖書に書いてあります。しかし、さすがに山は無理だろ、これは例えかもしれない…と、こう思っている時点で、やはり「信仰がない」のかもしれません。だから、もう一度、考え直して、改めて、神の子であるイエスさまなら何だってできます。絶対に山だって動かせるのです。

  ある人が、主イエスのところへ、弟子たちが使えないことを報告しに来た時、イエスさまは、このように言われました。「なんと信仰のない、よこしまな時代なのか。」「よこしま」というのは、「ひん曲がった」という意味です。世の中が、この時代が、ひん曲がっていると言われます。曲がってしまって、正しい方へと向いていないのです。神さまではなく、他のものに向いて、真の神ではないものを神としています。神に背く不信仰な時代です。それは、私たちの今も同じです。神さまの言葉に聴くこともなく、世の中の価値観は、聖書が証しする神さまとはまったく違うものです。伝道困難な時代、福音が伝わらない現代だとも言われます。ところが、どうやら、イエスさまが地上の生涯を歩まれた時も、不信仰な曲がった時代、信仰のないよこしまな時代だったのです。それは、真の神さまに向かうことのない世の中です。だから、主イエスでなければ、悪霊を追い出し、この子を癒すことができなかったのです。世の中のせいにするわけではありません。けれども、弟子たちが、神の御業を成し遂げるには、あまりにも、状況が悪すぎたのです。弟子たちは、悔しかったでしょう。あるいは、恥ずかしくて落ち込んだはずです。だから、「ひそかに」イエスさまのところへ原因を訪ねに来ました。「なぜ、わたしたちは悪霊を追い出せなかったのでしょうか。」

  私たちはどうでしょうか。山を動かすほどの信仰、けれども、それは、からし種一粒ほどの信仰があるのでしょうか。「信仰が薄い」とは、「信仰が小さい」ということです。どうやら、イエスさまは、悪霊を追い出せなかった弟子たちに「信仰がない」とは言われませんでした。でも、それは、あまりにも小さすぎるものでした。よく信仰は、量や質ではないと言われます。この聖書箇所の説教からも、信仰とは、あるか、ないかだと語られます。それもわかります。しかし、ここでは確かに、イエスさまは、弟子たちに信仰がないとは言われません。「薄い、小さい」と言われるのです。それなら、どれだけ小さいのかと思います。もうあるか、ないか見えないくらい小さいのでしょう。それでも「ある」のです。だから、私たちは福音を一人でも多くの人に、何とかして伝えたいと思います。けれども、それが小さい。それなら、その小さな、本当に薄く、小さく消えそうな信仰を、神さまに成長させていただくしかないでしょう。イエスさまを神の子、救い主と信じる私たちに、できないことは何もないのです。多くの教会の始まりは小さな交わりです。それが想像もしなかったような人たちを神の救いへと招く、大きな出来事になることだってあります。そこにあるのは、主を信頼して、祈りつつ委ねて励み続けられるかだけです。山だって、世界だって、動かす力があるのが、私たちに与えられている小さな信仰なのです。