2022年5月8日主日礼拝
「神の目に映る命の重み」
小松 美樹 伝道師
マタイによる福音書16章21~28節

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受難予告と呼ばれる箇所を読みました。主イエスが受難予告を語り始めたのは、「このときから」とあります。ペトロが主イエスを「あなたはメシア、生ける神の子です」(16:16)と言った時です。その時、主イエスは「御自分がメシアであることをだれにも話さないように、と弟子たちに命じられた。」(16:20)。それは、主イエスがメシアであることが、本当の意味で理解できるのは、受難の、救い主とはかけ離れた姿を知ってからなのです。

 「長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている」。 これを聞いたペトロは「とんでもないことです」と否定しました。そのペトロに、主イエスは振り向いて、「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている。」と言われました。厳しい言葉だと思いますが、主イエスはペトロを嫌い、怒っているのではなく、正しいところへと戻そうとしておられるのです。主イエスの後ろに居るペトロに「引き下がれ」と言われました。あなたは私の後ろにいなさいと、言っています。ペトロの気持ちが主イエスの前に出ていたからです。 

 「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」「自分を捨て」とは自分の思いを捨てて、主イエスに付いて行くことです。主イエスに付いていくことで、自分の負うべき十字架も見えてくるのだと思います。主イエスに従うことは、主イエスの教え、思いにそぐわない自分自身の姿を見つめずして歩めないからです。 
 「自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る。」。自分の命、思いにしがみついている者は、それを失うが、わたしのために命を(自分の思いを)失う者は、それを得ると言い換えることができるでしょう。なぜそのように言われるのか。「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。」と主は言われます。私たちが間違ったこ所に立ち、懸命に生きようとする中では、時に土台から崩れてしまうでしょう。自分の価値観、人の価値観の中に、埋もれてしまうからです。輝いて、活躍しているときは良いでしょう。しかし、自分の頑張りが人に評価されなくなる時、「私」という存在は社会に埋もれ、会社の歯車の1つにしかなっていないという価値観に押しつぶされることや、大勢の中の一人として、数にもかぞえられない存在になってしまうからです。 「あなた一人と、この社会、一人と大勢の意見、どちらを重要視すると思うのか?」。そうした考えを突き付けられた経験や、自分の存在を小さく見てしまうことがあるかもしれません。主イエスは、「私の後ろにいなければ、神の思いはわからない」ということを伝えようとされています。そうでなければ、あなたの命の尊さがわからなくなってしまうのです。

  主イエスが語られた受難予告は「あなたの命のために苦しみを受けて殺される」ということです。私たちは思うでしょう。「そんなことがあってはなりません」と。けれども主は、全世界よりも、あなたの命は大切だ。あなたの命は重い。そう言われるのです。

 私たちは間違えます。「全世界の方を優先してください」と。私たち自身も、大切に思う存在の命は、何としても助けたいと思うことでしょう。神の目に映る私たちはそのような存在なのです。 自分自身の思いを前面に持つとき、主イエスの後に従っているように思いながら、主をわきによせ、いさめているのです。主イエスに従うことは、神に従うことです。神の子として歩むとき、自分の命を低く見るようなお方といるのではありません。全世界を手に入れても、あなたの命を失ったら、何の得があろうか、とおっしゃる方。そのために、ご自分の命を代価にして、わたしたちを罪の中から買い戻そうとされるお方です。

  主イエスを慕うペトロがまだわかっていなかったことがあります。それは、主イエスの十字架の死は悲しみで伏せて、終わるものではないと言うことです。新しい命の始まりなのです。主イエスのご復活により、私たちの罪がゆるされた。その驚きと喜びをもって歩むこと。神の私たちへの眼差しがはっきりと示されています。私たちを愛してくださる方と共に歩みを始めること。それは私たちの新しい生き方、命の始まりです。