2022年5月15日主日礼拝
「変化を受け止めることができるか」小松 美樹 伝道師
マタイによる福音書17章1~13節

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 「イエスの姿が彼らの目の前で変わり、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった」。旧約聖書のシナイ山でのモーセの出来事と重なるように、その時の光景が浮かぶような描き方がされています(出エジプト34:28-)。また、これは復活の主イエスの姿です。

 弟子たちは主イエスに「私についてきなさい」と言われ、従い歩むようになりました。けれども、その歩みの先に何があるのか、主は何もお教えになっていませんでした。「エルサレムに行って…殺されて、三日目に復活することになっている」(16:21)。主に従うことは、苦しみと十字架の死がある。けれども、同時に復活も待っているのです。墓の中に向かう歩みではありません。弟子たちの歩みは復活の主イエスを見る歩みです。主はここで、その姿を先取りして弟子たちに見せられました。

 先のことを見せる。それは将来を見通すことです。旧約聖書にはそうした神のビジョンがいくつも描かれています。聖書は幾度も、私たちに歩みの先を、先取りして見せようとしています。 本日の聖書はマルコ福音書(9:2-)、ルカ福音書(9:28-)にも並行記事があります。そして、その直前には、主イエスが、死と復活について語られ、よく似た書き方がされています。しかし、それぞれの特徴もあります。マタイには「六日の後」とあります。
ペトロの信仰告白から一週間。神が世界を創造された七日間であり、安息された日。神を賛美し、礼拝する日に起きた出来事だとマタイは記します。礼拝の中で復活の主と出会うのです。

  「モーセ」は旧約聖書の律法を代表する人物で、「エリヤ」は預言者として代表する人物です。律法と預言は旧約聖書全体を指す、その代表的な二人と主イエスが語り合う、驚く光景を弟子たちは見ました。その素晴らしさを記念するかのように、仮小屋を建てようと言うのです。しかし、そんなことが求められているのではありません。神の声が響きました。「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」。御子主イエスの言葉を「聞くこと」。これが求められているのです。

  3人の弟子だけが連れて行かれ、見ることができました。けれども、それは3人が特別だったのではありません。主に呼ばれ、その声に従った者は誰でも、主の復活のお姿を目にすることができるのです。聖書は、主イエスの輝かしい姿を見せて、私たちに、行く先を「安心しなさい」というのではありません。ありがたい栄光を見て、拝むようなものでもありません。この主イエスの復活の姿と共に、この言葉が書かれていることが大切であると感じます。「一同が山を下りるとき」。山を下りると日常が待っています。いつまでも主の栄光の姿、光り輝く、偉人達との姿にとらわれていたら、受難の姿の救い主から、逃げ出します。私たちの救いはどこからくるのか。「まだ来ない。これは救いではない。」と自分の思う救いや願いを求めていては気が付かないのです。

 「信徒の友」の日々の糧に掲載してもらった、祈りの課題にこう書き送りました。
「2019年の浸水被害の時、祈りと支えを感謝致します。伝道開始70年目を迎えました。変化を恐れず、更なる70年先を見つめ、御言葉に留まる人として歩めますように。」。
 残念ながら、「変化を恐れず」という言葉は調整のために消えていましたが、教会の祈りにとって、とても大切なことだと思っています。 私たちの生活、環境は日々変化するものであるはずです。けれども、どこかで変わることを恐れたり嫌ったりしていることがあると思います。 主イエスに従うというのは、主と同じ方向に顔を向けることです。その先には、エルサレムがあります。それが受難予告です。私たちにとって、それは嫌な職場、面倒な人間関係、向き合いたくない過去、惨めな自分のことかもしれません。それ以上、足を進めたくない。しかし、進めるしかない厳しい現実があります。けれども主イエスは、その先にある「神の国」に顔を向けて、歩みを進められるのです。先を見つめることは、遠くを見ることです。足元や、目の前のことに気を取られ、見つめていると、フラつきます。先を見つめることで、まっすぐ進むことができます。私たちの信仰生活も同じだと思います。 私たちは、周りの些細なことが気になります。私たちは自分自身のことで思い悩み、足元がフラつくのです。けれども、そんな時、顔を上げ、神の御心というものを見ようとする時、主イエスの顔がどこに向いているのかを見つめます。主イエスはエルサレムを見、受難を見つめておられます。その先に復活のお姿もあるのです。主に従おうとするとき、私たちの顔はどこを向き、何を聞こうとしているか。そのこと問われているのです。