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2022年5月1日主日礼拝
「あなたは何を信頼していますか」石丸 泰信 先生
マタイによる福音書 16章13~20節

【ネットは <Youtube>】  春は区切りの季節です。人は何回も区切りを繰り返して、しだいに大人になっていきます。一人の人間としてどう生きるかということを考えて、それを次第にはっきりさせていきます。  どう生きるか。「自分の好きなことがやれれば良い」と多くの人は考えます。他方、「自分の好きなことがわからない」という人も大勢います。自分の好きなことなんて無くても良いでしょう。この世界が必要としている生き方は沢山あります。けれども、そこで大切なのは何になるか、どこに所属するかよりも、どんな人間になるかになるかが大切です。  どんな人間になるか。その第一歩は今、自分がどんな人間であるかを問い始めることだと思います。主イエスは 「それでは、あなたがたが、わたしを何者だと言うのか」 と言われました。これはつまり、あなたはわたしを見てどう思う人間か、ということです。自分が問われる問いです。ペトロだけが答えました。 「あなたはメシア、生ける神の子です」 。   マタイ福音書は、この場面を一つの区切りとして見ています。主イエスの教え(5-7章)と業(8-10章)を見聞きした人々は、それぞれの反応をしていました。肯定的な態度で喜ぶ者、否定的に見て殺意を抱く者、まだわからないと言って中立を保つ者。それが13章までに描かれます。そして主イエスの問いに対して「あなたはメシア」(救い主)、つまり、わたしにはあなたが必要です、という信仰告白の言葉が現れた時から、弟子たちだけに語る旅、エルサレムへ向かう歩みが始まるのです。   自分は何を必要として、何を信頼して生きているのか。お金や損得が基準という人もあると思います。けれども、主イエスは、損したって良い。本当に大切と思うことをしなさいと弟子たちに言ってきました。愛するとは損することです。愛するには自分の身を削らないといけない。自分の時間、お金、体力。せっかく自分のものなのにそれを相手に渡してしまうことです。主は、その痛みをこれから受けようとしています。その姿を見て、あなたは何と言うか。もちろん何かを信頼して生きるとは、あれかこれかではありません。お金ではなく愛とか、得してはいけないとかであれば、皆、人間を辞めなければいけません。実際は、あれもこれもです。けれども、自分が本当に信頼していることが船の碇のように、自分の立っている場

2022年4月24日主日礼拝
「気づいてほしいこと」小松 美樹 伝道師
マタイによる福音書16章5~12節

【ネットは <Youtube>】  16章から十字架へと向かわれる主イエスが描かれ始め、マタイ福音書の後半とも言える内容になってきます。   16章の前に「イエスは群衆を解散させ、舟に乗ってマガダン地方に行かれた」(15:39)。主イエスは一人で先に舟に乗り、ガリラヤ湖を渡りました。行った先で、16章1-4節までの出来事がありました。弟子たちは後から主イエスを追って来たのです。  ところがその時、弟子たちは 「パンを持って来るのを忘れていた」 。到着した弟子たちに、主イエスは 「ファリサイ派とサドカイ派の人々のパン種によく注意しなさい」 と言われました。4節までの話を前提として言われていますが、弟子たちはその時の、主イエスとファリサイ派とサドカイ派の人々との話は知らず、 「パンを持って来なかったからだ」 と論じ合ったのです。    「信仰の薄い者たちよ」 。文字通り訳すなら「信仰が小さい」です。主イエスは 「まだ、分からないのか。覚えていないのか。パン五つを五千人に分けたとき、残りを幾籠に集めたか。また、パン七つを四千人に分けたときは、残りを幾籠に集めたか」 と言われます。14章からのパンの出来事を二度も、弟子たちは経験しました。そして、弟子たちはその出来事を見ていただけではなく、主イエスが祈って分けたパンを配り、用いられたのです。人々が満腹した後、余ったパン屑を集めた。弟子たちは主イエスの奇跡を体で体験したのです。けれども、 「覚えていないのか、忘れてしまったのか」 と言われます。弟子たちがこの出来事を覚えていれば、「パンを持ってこなかった」ことに、心を奪われてしまうようなことはないはずです。主イエスは人々の空腹を満たして下さる。その力に信頼して安心することができるはずです。しかし、弟子たちはそうではなく、自分たちがパンを忘れたことを指摘されていると思い、論じ合ったのです。しかし、簡単に忘れていないはずです。   「まだ、分からないのか。覚えていないのか。」 この「覚えている」には「思い起こす」という意味があります。記憶に残っているかどうかではなく、積極的に思い起こすことです。「思い起こす」ことは、私たちの生活、行動、思いにおいて、生きた働きをすることです。弟子たちは、パンの奇跡を忘れたのではありません。しかし、積極的に思い起こすことはなかった。パンの奇跡

2022年4月17日イースター礼拝
「真実のしるし」小松 美樹 伝道師
マタイによる福音書16章1~4節
マタイによる福音書27章62節~28章10節

【ネットは <Youtube>】  イースターは喜ばしい日です。そして、多くの教会は日曜日の朝に、集まるようになりました。イースターは季節のお祭りとは異なり、この日と定められたところでやってきます。今日この日がイエス・キリストが復活した復活祭でありイースターです。  友人にイースターはどうして毎年日付が変わるのかと聞かれました。クリスマスや祝日の日付は変わりません。しかし曜日は毎年変わります。イースターは必ず日曜日に定められています。死んでしまった主イエスを神が復活させた、驚きの出来事が約2000年前の日曜日の朝に起きたからです。 信じられないような出来事です。当時の人々も信じられませんでした。  主イエスは人々に神の国の訪れを告げ、教えを説いていました。その教えに反感を持つ人々の手により、十字架にかけられました。十字架は教会のマーク、しるし、目印になりました。十字架は死刑のための、それも最も苦しく、恥ずかしさを受けるための死刑のものでした。けれども教会はそれを掲げています。私たちの救いのための十字架となったからです。   主イエスは、 『自分は三日後に復活する』 。と語られていました。祭司長たちは番兵を送り、主イエスの遺体を入れた墓を見張らせました。番兵は 「この出来事のすべて祭司長たちに報告した」 。 「祭司長たちは長老たちと集まって相談し、兵士たちに多額の金を与えて、言った。『弟子たちが夜中にやって来て、我々の寝ている間に死体を盗んで行った』と言いなさい。」 。一方の弟子たち婦人たちは主イエスの復活について忘れていましたし、信じていませんでした。だから驚きましたし、他の聖書の箇所には、悲しみに涙を流したとあります。 時代を超えても、私たちの心のうちに起こることは変わらないのだと思います。疑いの心は、用意周到に、自分に都合の悪い事は聞き漏らさぬように注意深くある姿。認めないためには見張りもするし、先手を打って、他の情報を広めます。また一方の弟子たちのように、主イエスに従ってきた人々は、主イエスが復活なさることを教えられていたのに、よくわからないままでいました。「まさか」と、信じられない思いと、聖書に記されていることは物語で、現実味がなくて理解できないという思いを、抱く人は少なくないでしょう。聖書の時代の人々も同じであり、だからこそ 「しるし」 を求めま

2022年4月10日主日礼拝
「平和と栄光」石丸 泰樹 先生
ルカによる福音書 19章28~40節

【ネットは <Youtube>】 ・28節 「このように話してから」 。何を話されたのでしょうか。  エリコのザアカイに「救いがこの家を訪れた」(9節)と語られ、続いて「ムナのたとえ」を語られたのです。即ち、神様は「一人一人に、救いへの招きを、時を、人格の尊厳を、与えられた」ということです。  「招き」はドイツ語でも(ベルーフ)、英語(コーリング)でも職業という意味があります。ベタニアには、ラザロ、マルタ、マリアの兄弟姉妹がいました。何頭ものロバを使って、運送業をしている人、主イエスの一行を迎えて過ぎ越し祭の間の滞在を支えるのできる人など、様々な奉仕者がいました。  ・「王は子ロバに乗って来られ、軍馬を絶ち、諸国の民に平和を告げられる。彼の支配は地の果てにまで及ぶ」(ゼカリヤ9:9-10)。  人々は自分の服を道に敷き(列王下9:13)、実を付けた枝、しゅろの葉をかざし…讃美の歌をささげた(続編マカバイⅡ10:7)。  ・そうした「疲れた者、重荷を負う者」(マタイ11:28)を悲惨のこと極み、絶望の底から呼び出される真の神の子、イエス・キリスト。ベツレヘムに生れ、命を狙われる中で(マタイ2:13)地上の人生を始められた主。宣教開始で即、当局の殺意の火が燃え上がりましたが(マルコ3:8)、ついに神殿で神の言葉を明確に語られました。  クリスマスでは天使と天の大軍が讃美した歌を、今、過越しの小羊を迎えるにあたり、先にエルサレムに来ていた「大勢の群衆」(ヨハネ12:12)も合流して歌います。「この神は、割礼のある者を信仰のゆえに義とし、割礼のない者をも信仰によって義としてくださるのです」(ロマ3:30)。それ以来、「ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです」(ガラテヤ3:28)。  来たりたもう全人類の、全被造物の救い主をこの日、全世界の教会で「平和と栄光」と讃美するのです。