2022年4月24日主日礼拝
「気づいてほしいこと」小松 美樹 伝道師
マタイによる福音書16章5~12節

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 16章から十字架へと向かわれる主イエスが描かれ始め、マタイ福音書の後半とも言える内容になってきます。 
 16章の前に「イエスは群衆を解散させ、舟に乗ってマガダン地方に行かれた」(15:39)。主イエスは一人で先に舟に乗り、ガリラヤ湖を渡りました。行った先で、16章1-4節までの出来事がありました。弟子たちは後から主イエスを追って来たのです。

 ところがその時、弟子たちは「パンを持って来るのを忘れていた」。到着した弟子たちに、主イエスは「ファリサイ派とサドカイ派の人々のパン種によく注意しなさい」と言われました。4節までの話を前提として言われていますが、弟子たちはその時の、主イエスとファリサイ派とサドカイ派の人々との話は知らず、「パンを持って来なかったからだ」と論じ合ったのです。

  「信仰の薄い者たちよ」。文字通り訳すなら「信仰が小さい」です。主イエスは「まだ、分からないのか。覚えていないのか。パン五つを五千人に分けたとき、残りを幾籠に集めたか。また、パン七つを四千人に分けたときは、残りを幾籠に集めたか」と言われます。14章からのパンの出来事を二度も、弟子たちは経験しました。そして、弟子たちはその出来事を見ていただけではなく、主イエスが祈って分けたパンを配り、用いられたのです。人々が満腹した後、余ったパン屑を集めた。弟子たちは主イエスの奇跡を体で体験したのです。けれども、「覚えていないのか、忘れてしまったのか」と言われます。弟子たちがこの出来事を覚えていれば、「パンを持ってこなかった」ことに、心を奪われてしまうようなことはないはずです。主イエスは人々の空腹を満たして下さる。その力に信頼して安心することができるはずです。しかし、弟子たちはそうではなく、自分たちがパンを忘れたことを指摘されていると思い、論じ合ったのです。しかし、簡単に忘れていないはずです。

 「まだ、分からないのか。覚えていないのか。」この「覚えている」には「思い起こす」という意味があります。記憶に残っているかどうかではなく、積極的に思い起こすことです。「思い起こす」ことは、私たちの生活、行動、思いにおいて、生きた働きをすることです。弟子たちは、パンの奇跡を忘れたのではありません。しかし、積極的に思い起こすことはなかった。パンの奇跡の体験が、生きた経験になっていないのです。 信仰生活は「思い起こす」生活です。神の恵みの経験、救いの体験を思い起こすことです。記憶に留めるというよりも、積極的に思い起こし、その恵みによって今の自分の歩みが支えられ導かれているということを信じる信仰です。

 本日の聖餐式は主の十字架の苦しみとご復活を思い起こします。 一説には、「弟子たちは向こう岸に行った」理由は、16章1-4節の、ファリサイ派やサドカイ派の人々から離れるためであった。パンを忘れたのは、その移動を急いだためだと。それは、主イエスは弟子たちがファリサイ派やサドカイ派の人々の教えによって影響受けて彼らの信仰が失われないためであった、と言われます。その見方ならば、「熱心な宗教家の教えに注意し、考え、風潮とは距離を置くようにするように」と見ることができます。ファリサイ派とサドカイ派は、外面性に重きを置く信仰と言えます。エルサレム神殿における宗教的な祭儀を重んじることや、神殿維持。信仰生活の外面的なものを重視しています。それは信仰の内面の欠如です。「気をつけなさい」と言われたのはこのことがあると思います。献金の額を、周りを基準にして比べて見ることや、教会での目に見える奉仕をしている人に対して自分は何もできないと申し訳なく思ったりすることは信仰生活で重視することではありません。目に見える態度を大切にしてしまう、そのようなパン種を私たちは持っているのです。また何よりも、ファリサイ派とサドカイ派の互いの宗教的な主張ではなく、主イエスに対立するという「合意」を持って、主イエスに近づいてきているのです。同じ目的をもつことや、意気投合すると、敵対していたはずの者が、手を組むということは容易に想像できます。それも、勢いをもってその目的に進み始めます。私たちが持つ祈りの課題、社会情勢、困窮者への支援をするとき、見失いやすくなるものがあります。課題の背後に隠れて、他の者を排除してしまうのです。目的を持って、結団する時、自分たちの思いを通そうとしてしまいます。ファリサイ派とサドカイ派の人々だけの問題ではなく、私たち一人一人の中に、同じパン種がいつでも膨らもうとしています。そうではなく、主イエスの広げてくださる、喜びのパン種を思い起こしましょう。