2022年4月17日イースター礼拝
「真実のしるし」小松 美樹 伝道師
マタイによる福音書16章1~4節
マタイによる福音書27章62節~28章10節

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 イースターは喜ばしい日です。そして、多くの教会は日曜日の朝に、集まるようになりました。イースターは季節のお祭りとは異なり、この日と定められたところでやってきます。今日この日がイエス・キリストが復活した復活祭でありイースターです。
 友人にイースターはどうして毎年日付が変わるのかと聞かれました。クリスマスや祝日の日付は変わりません。しかし曜日は毎年変わります。イースターは必ず日曜日に定められています。死んでしまった主イエスを神が復活させた、驚きの出来事が約2000年前の日曜日の朝に起きたからです。 信じられないような出来事です。当時の人々も信じられませんでした。

 主イエスは人々に神の国の訪れを告げ、教えを説いていました。その教えに反感を持つ人々の手により、十字架にかけられました。十字架は教会のマーク、しるし、目印になりました。十字架は死刑のための、それも最も苦しく、恥ずかしさを受けるための死刑のものでした。けれども教会はそれを掲げています。私たちの救いのための十字架となったからです。

  主イエスは、『自分は三日後に復活する』。と語られていました。祭司長たちは番兵を送り、主イエスの遺体を入れた墓を見張らせました。番兵は「この出来事のすべて祭司長たちに報告した」「祭司長たちは長老たちと集まって相談し、兵士たちに多額の金を与えて、言った。『弟子たちが夜中にやって来て、我々の寝ている間に死体を盗んで行った』と言いなさい。」。一方の弟子たち婦人たちは主イエスの復活について忘れていましたし、信じていませんでした。だから驚きましたし、他の聖書の箇所には、悲しみに涙を流したとあります。 時代を超えても、私たちの心のうちに起こることは変わらないのだと思います。疑いの心は、用意周到に、自分に都合の悪い事は聞き漏らさぬように注意深くある姿。認めないためには見張りもするし、先手を打って、他の情報を広めます。また一方の弟子たちのように、主イエスに従ってきた人々は、主イエスが復活なさることを教えられていたのに、よくわからないままでいました。「まさか」と、信じられない思いと、聖書に記されていることは物語で、現実味がなくて理解できないという思いを、抱く人は少なくないでしょう。聖書の時代の人々も同じであり、だからこそ「しるし」を求めました。 主イエスに対して、神の言葉を伝えるのに、あなたはどんな資格やどんな天からの権能があるのか、「しるし」を見せてほしいと言います。しかし、そのために見せる、しるしはありません。「ヨナのしるし」以外にはない。

 旧約聖書に出てくる預言者ヨナは、大きな魚の腹の中で三日間過ごしました。主イエスが、十字架におかかりになって、三日目に蘇られることがこの時、示唆されています。どんなに鮮やかな出来事が起きたとしても、ただ一つ、死んで三日後に復活する主イエスの他にしるしはありません。私たちのこれまでの、神の思いとかけ離れた、人を傷つけること、神に信頼をしないで、自分の考えを優先させる生き方を、全て赦されて、神の子とされる、新しい時代のしるしです。 主イエスは神の子だから、難なく救いの道を用意したのではありません。痛みに苦しみ、人々の無理解に悲しみ、傷を受けられました。

  主イエスは「神の平和を作るものとなりなさい」と聖書を通して私たちに語ります。神が造られた人が、人と争う道を歩んでほしくない。それが神の望んでおられることです。私たち自身を信じて、本当の平和が訪れるでしょうか。自分の思い、利益、損得を考えずにはいられません。テロや戦争も、自分たちの良いと思うことを貫いて起きるものです。神の平和のために、自らを犠牲にしてまで、守ってくださった、最も弱い姿の救い主に信頼をしたいと思います。

  主イエスの死は何だったのか。それは、「あなたのために死んでもいい」と言ってくれる愛。あなたの命のために、犠牲を捧げてくれた方がおられると確かなものです。主イエスの言葉は、「何も助けなどいらない」、「一人でも大丈夫」と思う心に、暖かく触れて、語り掛け、悲しみを一人で抱えない様にと一緒に並んでくださる方です。気高く馬に乗り手の届かない所にいるのではなく、目線の低いロバの子に乗り、私たちの全てを赦すために王座となる十字架へと向かわれたのです。その主イエスの生き方を、神が良しとして、復活させられたのです。私たちを愛して、愛しぬいて、命までも捧げて私たちを生かそうとしてくださる方がいるのです。
 そのようにして生かされた命を、私たちはどのように使ってゆくのでしょうか。主イエスの手の傷は今も御手に残されています。私たちの手はその主イエスの手に握られて、離されることはありません。ご復活の主がいつも一緒にいてくださるのです。