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主日礼拝2021年10月3日
「誰のために生きるのか」石丸 泰信 先生
マタイによる福音書10章34~39節

[録音] [録画] Youtube  「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来た」 と主は言われます。これまでと話題を変え、弟子たちの派遣(10:1-)の言葉をやり直しているように聞こえます。いや、もっと遡っています。そもそも主イエスが来られた理由が改めて言われているからです。この口調は山上の説教と同じです。こうありました。「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない」(5:17)。それまで人々は思っていたわけです。苦しんできた律法の遵守を主イエスが終わらせてくれる。けれども、主は勘違いしないで欲しいと言われたわけです。今日の言葉も同様です。主に従おうとする人たちは、わたしの平和のために主は来られたと思っていました。しかし、主は、わたしが来た故に闘いが始まると言われるわけです。 「わたしは敵対させるために来たからである。人をその父に、娘を母に、嫁をしゅうとめに。こうして、自分の家族の者が敵となる」 。この言葉は好まれません。おそらく十戒の第五戒「あなたの父母を敬え」と矛盾するからです。けれども、だからこそ、律法を語ると同じ口調で主は語り直そうとしているのだと思います。   十戒の第五戒は今日の箇所と重なります。十戒は大きく2つに分かられますが「わたしをおいて他に神があってはならない」という第一戒から始まり四戒までが「神と人との戒め」です。第一戒は神を知りな がら他の神々に惹かれて行くなとも読めますが、第一義には「人々を恐れるな」(10:26)ということです。畏れるべき方は神だけであって、人々のことをまるで神か何かだと勘違いして恐れてはならない。これは神との関係がキチンとしていないと、他のものを神格化し恐れてしまうことを心配しているが故の戒めです。そして第五戒からが「人と人との間の戒め」です。そのトップに「あなたの父と母を敬え」があります。人間関係の最重要課題ということです。 第五戒は周知の言葉です。しかし、宗教改革者のルターは「これを守れる人は聖人である」と言いました。彼は父親との関係が良くなかったようです。第五戒は父と母との関係が良好であれば簡単です。けれども、関係が悪く、子が虐待を受けていたらどうなってしまうのでしょう。それでも守らなければならないのか。そうです。そのため

主日礼拝2021年9月26日
「なぜ、恐れないでいられるのか」小松 美樹 伝道師
マタイによる福音書10章26~33節

[録音] [録画] Youtube 「恐れるな」と主は語られます。 「地方法院に引き渡され、会堂で鞭打たれる」。これは主イエスが、この後に人々から受けるもの(26章)ですが、迫害を予告されている弟子たち、キリスト者たちも、歴史的に迫害を受けました。    「体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。」。人が殺すことのできる体と、敵対者、迫害する者たちがどんなに願っても殺すことのできない魂との区別があります。迫害する者たちは、体しか痛めつけることはできません。どんなに体を傷つけても、キリストを信じる心が折れないキリスト者を迫害者たちは恐れていました。   力や権力が私たちを抑え込もうとすることを考えると恐ろしく感じます。けれども、主イエスがおっしゃっていることは、時代と共に変化する事柄です。渦中にいるときには、耐え難い苦しみですが、迫害を経験してきた者たちが語り伝える、恐れるべきものは、時代の策略、評価、人の評価、人々の思想の流れではないのだと主は語ります。   どんなに悪事を隠そうとも、必ず明るみに出るのだと言います(26節)。それは人の目にはわからない様に隠しているものだとしても、神の目に隠しておけるものはありません。そして主は、神の思い、神の悲しみこそ覚えなさいと言われているのです。   恐れるべき方である神について、主イエスは、雀と私たちの髪の毛一本すらも数えておられる方だと語ります。「二羽の雀が一アサリオンで売られているではないか」。ルカ福音書では、「五羽の雀が二アサリオンで売られている」(12:6)。セット売りにして、おまけをつけないと、それ単体では価値が無く、一羽では値もつかないのです。人が「価値なし」と決めた、おまけの雀すらも神は知っているのす。「その一羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ地に落ちることはない」ほどに、神は全てのものに目を留めておられます。「あなたがたはたくさんの雀よりもはるかにまさっている」と主は言われます。雀と比べたら、人の価値はその何倍もだ!わかるでしょう?というように。   また、数え切れないほどの例として「髪の毛」が取り上げられています。だれも髪の毛を数えることはできません。髪の毛が床に落ちてもゴミになり、とるに足らないものです。けれども、一方で人は、生まれた子どもの髪の毛を筆にしてみたり、取ってお

主日礼拝2021年9月19日
「信じているからこその苦しみ」小松 美樹 伝道師
マタイによる福音書10章16~25節

[録音] [録画] Youtube  主イエスは12人の弟子を呼び集め、派遣するその時に「狼の群れに羊を送り込むようなものだ」と言われます。それは「逃れられない迫害を受ける」ということです。  狼の群れは、敵対するもの、食い尽くそうとするものです。わたしたちの周りにある、習慣というものが、キリスト者の信仰、生活、行いを飲み込もうとするのではないかと思います。神棚や仏壇とどう折り合いつけていこうかと思ったことがないでしょうか。家の宗教と私の信仰。そのようなことに迷いが、悩みが起こるかもしれません。迫害とは言いませんが、向かい風に思うことはあるでしょう。些細なことから、長年苦しさを抱えたり、これで良いのだろうかと迷いながら歩んできた方もいるかもしれません。  でも決して、そのようなことに対抗しなさいと主は言いません。 羊の姿のままで、でも「蛇のように賢く、鳩のように素直に」、と言われます。蛇の賢さは創世記3:1に記され、鳩の素直さは、イザヤ60:8や、ノアの箱舟でオリーブの葉をくわえてまっすぐ帰るべきところ(主の元)に戻ってくる姿を思い起こします。   迫害を予告されながらも主に従うのは、その人だけに与えられた使命を担うからなのだと思います。そしてそれぞれに必要に応て、「父の霊」が私たちの中にあり、語らせてくださいます。 全ての人に、神からの呼び出しがあり、あらゆる職業、手の業に、繰り返される日々の中に、命が通う。大切な働きになるのです。何を持って働くか、多くの場合、自分の好きなこと、自分の価値が上がることを判断基準にして選ぼうとします。それも大切です。けれども、神からの召し、神があなたを呼びだしている。という視点により、自分の仕事に誇りを取り戻すことができます。 そうすると、苦難を受けてでも、なぜ「耐え忍ぶ者は救われる」と言われるのか、なぜ「狼の群れに羊を送り込む」のか。少し見えてくるような気がします。   羊と狼が相互に睦まじく生活する、というのは、聖書が語る、終末論的平和です(イザヤ11:6、65:25)。それと重ねるように言われます。そのような時はまだ来ていないから、羊と狼はまだ平和には過ごせません。けれども暴力を受ける、狙われる、その事は分かっていても、羊として無防備でなければならないのです。イザヤの言葉に「害することも滅ぼすこともない、」とあるよう

主日礼拝2021年9月12日
「キリストの派遣」上野 峻一 先生
マタイによる福音書10章5~15節

[録音] [録画] Youtube  本日の聖書の箇所から、主イエスが12人の弟子たちを派遣するにあたって、その具体的な指示が記されていきます。  第11章までの残り第10章のすべてが、主イエスが弟子たちに命じられた内容となっています。主イエスが、弟子たちに一体どのようなことを命じられたのか、その内容を深く知り、理解することは、私たちにとっては重要なことであると考えます。なぜなら、私たちもまた、キリストの弟子として派遣されるからです。  主イエスは「異邦人の道に行ってはならない。また、サマリア人の町に入ってはならない。」と言われます。弟子たちを遣わされる対象や地域を限定します。福音書全体からすれば、このことは少々驚くべきことです。このマタイ福音書の最後には、主イエスは「すべての民をわたしの弟子にしなさい」と言われます。またヨハネ福音書やルカ福音書では、ユダヤ人以外の異邦人、サマリアの地域での活動もあります。しかし、主イエスは「まず」イスラエルの失われた羊のところへと、弟子たちを派遣されます。イスラエルの失われた羊とは、はるか昔から、神の民として救いが約束されていたユダヤ人たちです。そこへと、まず訪れて、救いの出来事を、主イエス・キリストの福音を語るように言われます。   その派遣されたところで語られる内容は、「天の国は近づいた」ということです。つまり、神さまの方から私たちに近づいて来られるのです。私たち地上の国、世界に、神がおられる天の国が近づいてくると、一体どうなるのでしょうか。それが、8節以下に続きます。病人が癒やされ、死者が生き返り、重い皮膚病を患っている人を清くし、悪霊が追い払われます。大変驚くべき出来事です。そんなことが起こるのかと思ってしまいます。これは、私たち人間の価値観や常識ではなくて、神さまがご支配される世界で生きることを意味しています。  主イエス・キリストによって、天の国は到来しました。ただし、まだ完成はしていません。今は完成の途上にあります。主イエスの到来によって、天の国は既に来たが、しかし、終わりの日の完成を目指して進んでいるのです。そこでの働きは、すべて「ただ」です。「ただで受けたのだから、ただで与えなさい。」この「ただ」という言葉は、「贈り物」や「賜物」「恵み」とも訳すことのできる言葉です。神さまの一方的な恵みを受けた私たちは