主日礼拝2021年9月12日
「キリストの派遣」上野 峻一 先生
マタイによる福音書10章5~15節

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 本日の聖書の箇所から、主イエスが12人の弟子たちを派遣するにあたって、その具体的な指示が記されていきます。

 第11章までの残り第10章のすべてが、主イエスが弟子たちに命じられた内容となっています。主イエスが、弟子たちに一体どのようなことを命じられたのか、その内容を深く知り、理解することは、私たちにとっては重要なことであると考えます。なぜなら、私たちもまた、キリストの弟子として派遣されるからです。

 主イエスは「異邦人の道に行ってはならない。また、サマリア人の町に入ってはならない。」と言われます。弟子たちを遣わされる対象や地域を限定します。福音書全体からすれば、このことは少々驚くべきことです。このマタイ福音書の最後には、主イエスは「すべての民をわたしの弟子にしなさい」と言われます。またヨハネ福音書やルカ福音書では、ユダヤ人以外の異邦人、サマリアの地域での活動もあります。しかし、主イエスは「まず」イスラエルの失われた羊のところへと、弟子たちを派遣されます。イスラエルの失われた羊とは、はるか昔から、神の民として救いが約束されていたユダヤ人たちです。そこへと、まず訪れて、救いの出来事を、主イエス・キリストの福音を語るように言われます。

  その派遣されたところで語られる内容は、「天の国は近づいた」ということです。つまり、神さまの方から私たちに近づいて来られるのです。私たち地上の国、世界に、神がおられる天の国が近づいてくると、一体どうなるのでしょうか。それが、8節以下に続きます。病人が癒やされ、死者が生き返り、重い皮膚病を患っている人を清くし、悪霊が追い払われます。大変驚くべき出来事です。そんなことが起こるのかと思ってしまいます。これは、私たち人間の価値観や常識ではなくて、神さまがご支配される世界で生きることを意味しています。

 主イエス・キリストによって、天の国は到来しました。ただし、まだ完成はしていません。今は完成の途上にあります。主イエスの到来によって、天の国は既に来たが、しかし、終わりの日の完成を目指して進んでいるのです。そこでの働きは、すべて「ただ」です。「ただで受けたのだから、ただで与えなさい。」この「ただ」という言葉は、「贈り物」や「賜物」「恵み」とも訳すことのできる言葉です。神さまの一方的な恵みを受けた私たちは、その恵みを誰かに届ける時、受けたものと同じものを与えます。それは、神の恵みのリレーのようなものです。 主イエスは、「町や村に入ったら、そこで、ふさわしい人は誰であるかをよく調べ、旅立つ時まで、その人のもとにとどまりなさい」と言われました。これから福音を伝えていくために、どこを拠点としたらいいか、誰とちゃんと付き合ったらいいか、よく調べなくてはならないのです。とても戦略的であると言えます。主イエスの言葉は続きます。まず、家に入ったならば、「平和があるように」と挨拶をしなさい。「平和があるように。」この言葉は、ユダヤ人たちの間で交わされていた一般的な挨拶です。主イエスは、この挨拶の本当の意味を弟子たち考えさせようとしています。「平和があるように」シャロームという挨拶は、その場を平安で満たす、動的なものです。「平和があるように」と語る者が、平和の使者として、その言葉から平安を満たしていくのです。 

 確かに、主イエスは、弟子たちが受け入れられない時があることも、ご存知でした。しかし、それでも、弟子たちを遣わされます。「天の国が近づいた」「平和があるように」というメッセージと出来事は、主イエスの到来と共に始まりました。今回の12人の弟子の派遣の時、まだ主イエスは地上におられます。ただし、主イエスの十字架の死とご復活の後、弟子たちは、やがて徹底的な拒絶を受ける時がやってきます。その前に、主イエスが地上の歩みをなさっている時、弟子たちを宣教の業に出かけさせる必要があったのでしょう。

 本日の聖書の最後の言葉に注目します。旧約聖書の創世記にある神の裁きによって、滅ぼされた町ソドムとゴモラ。神に背き、御言葉に聴かず、自分勝手に生きた者たち。派遣されたキリストの弟子の言葉を聴かない者たちと重ねられます。ただし、12人の弟子たちは、主イエスの使徒として派遣されながらも、あの主イエスのご受難と十字架の死を前にした時、イエスさまを裏切ってしまった彼らは、やがて、この「ふさわしさ」を、どのように受け止めたでしょうか。けれども、主の十字架に続く、復活の出来事によって、気づかされた裁きとは、主イエスご自身が、弟子たちの罪を担うものでした。

 私たちもまた、主イエス・キリストによって、神に背く罪から救われた者です。そのような私たちを主イエスは選び、キリストの弟子として遣わされます。