主日礼拝2021年9月26日
「なぜ、恐れないでいられるのか」小松 美樹 伝道師
マタイによる福音書10章26~33節

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「恐れるな」と主は語られます。 「地方法院に引き渡され、会堂で鞭打たれる」。これは主イエスが、この後に人々から受けるもの(26章)ですが、迫害を予告されている弟子たち、キリスト者たちも、歴史的に迫害を受けました。  
 「体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。」。人が殺すことのできる体と、敵対者、迫害する者たちがどんなに願っても殺すことのできない魂との区別があります。迫害する者たちは、体しか痛めつけることはできません。どんなに体を傷つけても、キリストを信じる心が折れないキリスト者を迫害者たちは恐れていました。 

 力や権力が私たちを抑え込もうとすることを考えると恐ろしく感じます。けれども、主イエスがおっしゃっていることは、時代と共に変化する事柄です。渦中にいるときには、耐え難い苦しみですが、迫害を経験してきた者たちが語り伝える、恐れるべきものは、時代の策略、評価、人の評価、人々の思想の流れではないのだと主は語ります。 

 どんなに悪事を隠そうとも、必ず明るみに出るのだと言います(26節)。それは人の目にはわからない様に隠しているものだとしても、神の目に隠しておけるものはありません。そして主は、神の思い、神の悲しみこそ覚えなさいと言われているのです。

  恐れるべき方である神について、主イエスは、雀と私たちの髪の毛一本すらも数えておられる方だと語ります。「二羽の雀が一アサリオンで売られているではないか」。ルカ福音書では、「五羽の雀が二アサリオンで売られている」(12:6)。セット売りにして、おまけをつけないと、それ単体では価値が無く、一羽では値もつかないのです。人が「価値なし」と決めた、おまけの雀すらも神は知っているのす。「その一羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ地に落ちることはない」ほどに、神は全てのものに目を留めておられます。「あなたがたはたくさんの雀よりもはるかにまさっている」と主は言われます。雀と比べたら、人の価値はその何倍もだ!わかるでしょう?というように。

  また、数え切れないほどの例として「髪の毛」が取り上げられています。だれも髪の毛を数えることはできません。髪の毛が床に落ちてもゴミになり、とるに足らないものです。けれども、一方で人は、生まれた子どもの髪の毛を筆にしてみたり、取っておきたいと思うほどに、その人の成長過程や、その人の全てが愛おしいと見ることがあります。神から見れば、人は数えきれないほど地球上にいます。しかし、人が自分の髪の毛の1本を落ちても気が付かないようにではなく、人を「子」としてみてくださっている。神はその髪の毛をみな数えられる程に、私たちの全てを知っておられます。

  「仲間であると言い表す者」は「屋根の上で言い広めなさい」と同じことです。明るみで言うこと、言い広めること、それは人の前で主イエスを受け入れることであり、「信仰を告白する」ことです。私たちで言うなら、屋根の上で言い広めるのは、伝道することと言えるでしょう。そして日々の中で信仰を告白することです。迫害のなか、批判される中、黙っていては、言い表すことになりません。そのことは、審判者である父なる神の前で行うことであるとマタイは記します。  つまり、黙ったままでは「天の父の前で、その人を知らないと言うもの」と同じなのです。その時には主イエスも「わたしも天の父の前で、その人を知らないと言う。」と言われます。厳しい言葉です。しかし、この厳しさがあるからこそ、主イエスの言葉は、慰めに満ちた、福音なのです。迫害や世の状況に恐れを持つのでなく、神の思いを知って生きる中で、神の慰めと愛の永遠の救いに入れていただくことができるのです。それは今から始まっていて、終わりの時への希望としてわたしたちの内に根付いています。

  私たちの気にしていること、恐れていることは何でしょうか。やはり、人の目、人の評価ではないでしょうか。それがあるから、実は心の奥底では恐れているから、「今は知らん顔していればいい。」「言わなくても良い」という思いが先に出るのです。 だから主は三度も、私たちを励まします。「恐れるな」と。

  信仰の告白は強いられるものではありません。喜び、あるいは決意をもって告白します。神なしに、私たちは落ちません。神が許可するかではなく、神無くしては、落ちることはないのです。落ちたその場所も神の御手の中。神の手からこぼれ落ちることはないのです。そのことを思う時、恐れに勝る、深い感謝をもって、信仰の告白を言い表すことができるのだと思います。神と共にある喜びと希望をもって、私たちの日々を歩むことができるのです。