主日礼拝2021年9月19日
「信じているからこその苦しみ」小松 美樹 伝道師
マタイによる福音書10章16~25節

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 主イエスは12人の弟子を呼び集め、派遣するその時に「狼の群れに羊を送り込むようなものだ」と言われます。それは「逃れられない迫害を受ける」ということです。

 狼の群れは、敵対するもの、食い尽くそうとするものです。わたしたちの周りにある、習慣というものが、キリスト者の信仰、生活、行いを飲み込もうとするのではないかと思います。神棚や仏壇とどう折り合いつけていこうかと思ったことがないでしょうか。家の宗教と私の信仰。そのようなことに迷いが、悩みが起こるかもしれません。迫害とは言いませんが、向かい風に思うことはあるでしょう。些細なことから、長年苦しさを抱えたり、これで良いのだろうかと迷いながら歩んできた方もいるかもしれません。

 でも決して、そのようなことに対抗しなさいと主は言いません。 羊の姿のままで、でも「蛇のように賢く、鳩のように素直に」、と言われます。蛇の賢さは創世記3:1に記され、鳩の素直さは、イザヤ60:8や、ノアの箱舟でオリーブの葉をくわえてまっすぐ帰るべきところ(主の元)に戻ってくる姿を思い起こします。 

 迫害を予告されながらも主に従うのは、その人だけに与えられた使命を担うからなのだと思います。そしてそれぞれに必要に応て、「父の霊」が私たちの中にあり、語らせてくださいます。 全ての人に、神からの呼び出しがあり、あらゆる職業、手の業に、繰り返される日々の中に、命が通う。大切な働きになるのです。何を持って働くか、多くの場合、自分の好きなこと、自分の価値が上がることを判断基準にして選ぼうとします。それも大切です。けれども、神からの召し、神があなたを呼びだしている。という視点により、自分の仕事に誇りを取り戻すことができます。 そうすると、苦難を受けてでも、なぜ「耐え忍ぶ者は救われる」と言われるのか、なぜ「狼の群れに羊を送り込む」のか。少し見えてくるような気がします。 

 羊と狼が相互に睦まじく生活する、というのは、聖書が語る、終末論的平和です(イザヤ11:6、65:25)。それと重ねるように言われます。そのような時はまだ来ていないから、羊と狼はまだ平和には過ごせません。けれども暴力を受ける、狙われる、その事は分かっていても、羊として無防備でなければならないのです。イザヤの言葉に「害することも滅ぼすこともない、」とあるように、丸腰でいきなさい、と主は言われます。

 なぜならば、主は、山上の説え(5-6章)で、迫害者たちの報復を願ってはいけないし、杖も持っていってはいけない(10:10)と言われました。そして何より「平和を実現する人々は幸いである」(5:9)といわれ、「平和の挨拶を行いなさい」(10:12)と言われました。 人々と弟子たちの衝突は必ずある。だからこそ「わたしがあなた方を遣わす。」と主は強調して言われました。それが「召し」です。 「平和」という言葉は聖書には何度も出てきますが、「平和を作り出す」とか「実現する」のような表現は多くありません。エフェソの信徒への手紙2:14以下を見ると、「こうしてキリストは双方をご自分に置いて一人の新しい人に作り上げて平和を実現し」とあります。 私たちは主イエスの十字架により贖われ、敵意を滅ぼされたのです。主イエスが十字架にかかり死に至ったのは、平和を作り出すためです。そのことを思う時、新しい命が与えられた私たちがどのように生きるべきかはっきり見えてきます。私たちの互いの関係を壊してしまう罪を、キリストの光に照らされて見つめることができます。キリストはその罪による関係破壊を終わらせるために、神との和解のために命を捨てられました。

  敵には権力を、力を、防衛力を。国を守るためにとか、そんな言葉が聞こえてきますが、主は、敵には丸腰で、武器を持たずに行きなさいと言われます。しかし、決して私たちの命を捧げろと言うのではありません。逃げてもいい。そのように言われます。しかし、そのような中で、狼の群れの中に行くことができるのは、キリストが私たちを送り出しているからです。私たちと共にいるから。私たちは神の平和の中に入れられているからです。

 「平和があるように」と私たちが祈り続け、それを実現するために小さな祈りを、家族との接し方を、隣人との関係を、平和を、実現するために踏み出すことを行わなければ、どうしてこの地に神の平和が現れるでしょうか。 

 私たちが教会の外へと踏み出して行くとき、また教会の中で行われる挨拶交わり、伝道が神の平和への一歩なのです。