主日礼拝 2021年6月27日
「主に従いゆくは」 小松 美樹 伝道師
マタイによる福音書 8章18~22節
[録音] [録画] Youtube 主イエスについて行きたいと志願する二人の人が現れます。そう思った人に対する主イエスのお答は、「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕するところもない。」でした。冷たく突き放したような言葉で、ついていきたいと言った律法学者とはまるで温度差が違います。主イエスの言う意味は、それは、「あなたの着いていきたいというわたしの生活は、生き方は、狐や空の鳥以下でだ」ということなのでしょう。称賛される生活ではなく、安定した生活でもない、狐や空の鳥以下の生活であると。 なぜ主イエスはこのような生活であるのか。それは「私たちのため」ということ以外にはありません。マタイ20:27に「いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい。人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人の身代金として自分の命を捧げるために来たのと同じように。」とあります。主イエスは仕えてもらうためにではなく、仕えるためにこの世に来られました。本来、主イエスは神の一人子として、天におられるはずの方です。しかし主は、私たちの救いのために、天から下り、人となってこの世に来てくださいました。神の国の福音を人々に伝え、そして最後に十字架にかかってご自身の命をささげるために。クリスマスの時、主イエスのお誕生の時からそうです。私たちの王、主イエスは宮殿や立派なベッドではなく、宿もなく、追いやられた現実、飼い葉桶の中にお生まれになりました。 主イエスについて行くことは、この時の周りにいた人々に称賛されるような生活とは違います。何よりも他者のために心と体を用いる生活です。 わたしたちはその主イエスの姿を見て、それが自分に向けられたものだと知ったとき、感謝をもって主に仕えていきます。教会も、「主の呼びかけに応える」ということを見失ったら、「なぜ自分は教会に行って、人のためにこんなに奉仕したり仕えなくてはならないんだ」と思うことばかりではないかと思います。 二人目の弟子はこう言います。「主よ、まず、父の葬りに行かせて下さい」。主イエスの答えは「わたしに従いなさい。死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい。」。厳しい言葉に聞こえます。また、家族の葬りも許されない、と誤解されやすい言葉だと思います。 当時のユダヤでは、父...