主日礼拝 2021年6月27日
「主に従いゆくは」 小松 美樹 伝道師
マタイによる福音書 8章18~22節

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  主イエスについて行きたいと志願する二人の人が現れます。そう思った人に対する主イエスのお答は、「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕するところもない。」でした。冷たく突き放したような言葉で、ついていきたいと言った律法学者とはまるで温度差が違います。主イエスの言う意味は、それは、「あなたの着いていきたいというわたしの生活は、生き方は、狐や空の鳥以下でだ」ということなのでしょう。称賛される生活ではなく、安定した生活でもない、狐や空の鳥以下の生活であると。<

   なぜ主イエスはこのような生活であるのか。それは「私たちのため」ということ以外にはありません。マタイ20:27に「いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい。人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人の身代金として自分の命を捧げるために来たのと同じように。」とあります。主イエスは仕えてもらうためにではなく、仕えるためにこの世に来られました。本来、主イエスは神の一人子として、天におられるはずの方です。しかし主は、私たちの救いのために、天から下り、人となってこの世に来てくださいました。神の国の福音を人々に伝え、そして最後に十字架にかかってご自身の命をささげるために。クリスマスの時、主イエスのお誕生の時からそうです。私たちの王、主イエスは宮殿や立派なベッドではなく、宿もなく、追いやられた現実、飼い葉桶の中にお生まれになりました。

   主イエスについて行くことは、この時の周りにいた人々に称賛されるような生活とは違います。何よりも他者のために心と体を用いる生活です。 わたしたちはその主イエスの姿を見て、それが自分に向けられたものだと知ったとき、感謝をもって主に仕えていきます。教会も、「主の呼びかけに応える」ということを見失ったら、「なぜ自分は教会に行って、人のためにこんなに奉仕したり仕えなくてはならないんだ」と思うことばかりではないかと思います。

   二人目の弟子はこう言います。「主よ、まず、父の葬りに行かせて下さい」。主イエスの答えは「わたしに従いなさい。死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい。」。厳しい言葉に聞こえます。また、家族の葬りも許されない、と誤解されやすい言葉だと思います。

   当時のユダヤでは、父の葬式をきちんと行うことは息子の大事な義務でした。主イエスの言葉は、親を大事にしない様に聞こえるかもしれません。しかし、旧約聖書の十戒の「あなたの父と母を敬え」との考え方は聖書に多く表れています。けれども聖書が強調するのは、人への愛や生活の義務より、何よりもまず神との関係を大切にしなさいということです。わたしたちは、知らず知らずのうちに、人の求めのために、「まずこれをやらなければ」という思いによって動き、優先しようとします。その時、神を後回しにしていることに気付いていません。第一にすべきことを第一にする。そうする時に優先順位の二番目以降のことも正しく整えられていきます。家族の葬りをするかしないかということでも、それが「善」とか「悪」の話でもなく、「最優先」を言われているのです。決して葬りを軽んじているのではありません。

  私たちは自分の行いについての理由と言おうとするとき、「こういう意味あるのだ」と、それによって正当化し、間違っていない、と確かめようとします。しかし、神の御心を問うているのか。主イエスに従う道の中に、それがあるのか。自分の思いを何よりも優先していないかと言われているのです。

   「主よ」と呼びかけがあります。山上の説教の終わりに「主よ、主よと言うものが皆、天の国に入るわけではない。」と言われたことを思い起こさせるような書き方に見えます。「主よ」と呼びかけながら、「でも、まず~を。それから従います。」。そのしなくてはならない事が、その人にとっての主なのです。今すぐは主イエスに従えない。その理由は最もです。主イエスは「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。…。」(6:33)と言います。「まず」、「神の国と神の義を求めなさい」。わたしたちの心配する事柄を、問題を、神の国と神の義を求めることによって、主イエスに従うことは、私たちの最も大切なことであり、最も良い方へと導いていただけると信じてゆだねることなのです。