礼拝説教6月20日

「損を引き受ける愛」
マタイによる福音書8章14ー17 節
小松 美樹 伝道師

[録画]

 主イエスは、山を下りられ、ペトロの家まで行きました。そこでは主イエスはペトロの「しゅうとめが熱を出して寝込んでいるのをご覧になった」。主イエスの弟子になるために漁師という仕事を捨てて、家族とも離れた生活を送っていただろうペトロにとって、ばつが悪い帰宅になったことでしょう。しかし、「主イエスがその手に触れられると、熱は去り、しゅうとめは起き上がってイエスをもてなした」。主イエスは頼まれてもいないのに、ペトロのしゅうとめのところまでやってきて、癒しを与え、起き上がり、主イエスをもてなすまでの回復を与えられました。恐らく、ペトロの家族はしゅうとめの熱のことで苦しんでいた。そうでなければ、突然仕事を捨てて主イエスに付いていったペトロと主イエスのことなど、家の中に招き入れるはずがないと思いました。

 主イエスは8章から始まった重い皮膚病で汚れているとされた人に触れて癒し、ローマの百人隊長という異邦人の僕ための救いの業を行い、女性の人権が排除されていたような社会の中において、訪れて救いの手を差し伸べられた。イスラエルの社会、宗教的な制度から排除されたものへの象徴的な救いであると言えます。

寝込んでいたしゅうとめは「もてなした」とある。これは「仕えるようになった」ということです。ペトロと家族はこの出来事の後も主イエスに仕えるようになっていたことが伺える箇所があります。コリントの信徒への手紙1の9章5節「わたしたちには、他の信徒たちや主の兄弟たちやケファのように、信者である妻を連れて歩く権利がないのですか。」とあります。ケファと後に呼ばれるようになったペトロの伝道旅行に妻が同行するようになっているのです。ペトロの妻もしゅうとめも、これまで主イエスに出会うことなく過ごしてきたのに、主イエスの方から一方的にやってきてくださった。そのことにより主イエスに出会い、自分たちの身に起きたできごとに感謝をもって仕えるようになったのです。

 この日の夕方になると、主イエスのもとに大勢の助けを求める人が連れて来られました。「それは、預言者イザヤを通して言われていたことが実現するためであった。」。このようにして預言の成就が今起きていることであり、主イエスのこの癒しは、神の計画の中にあるということなのです。神の御計画は、私たちの罪も病もことごとく身代わりになり引き受けてくださるという驚くべきものでした。

 私たち自身はどんなに大切な人、愛する人の辛さ、病を変わってあげることなどできません。しかし主イエスは辛さに触れて、ぬぐってくださいます。病に触れて癒してくださいます。そのことのために、ご自身が十字架で処刑される道へと向かうことになろうとも、救いの業を止めませんでした。なぜなら、その十字架での死は逃れてはいけないものだからです。受け止めなければならないものでした。私たちが神から遠く離れて生きる罪として受けるべきはずのものを、神の救いの業に入れてくださり、その死を引き受けてくださるためです。私たちも大切な人のために引き受けようとする責務があります。「あの人のために私が担おう」と決意するときがあると思います。けれども、それが自分のためではなく、愛によるものだということは、主イエスによって救われた命があってはじめて気が付くことのできるのです。相手のためにと言いながら、自分自身の評価に繋がることや、損得を考えることが隠れているような「担う」ものではありません。神の愛は、何かに価値を認めて行われるものではなく、何にも比べられることのない、私という存在のために行われる事柄です。

 このペトロのしゅうとめの熱が去った、小さな癒しの出来事は、他の福音書にも記され、人々に愛され、喜びに満ちた出来事だったのです。この小さな家庭に、この私のもとに主イエスの救いが訪れた驚きと、その救いが神の御計画のうちにあることを知る、喜びと感謝を持って、主に応えて、仕えてまいりましょう。