礼拝説教6月6日

「信じたとおりに」
マタイによる福音書8章5ー13節
上野 峻一 先生

[録画]


   「帰りなさい。あなたが信じたとおりになるように。」主イエス・キリストは、このように、今日、ここにいる私たち一人ひとりにも語られます。「あなたが信じたとおりになるように。」この言葉を聴いて帰っていった百人隊長は、一体どのような想いであったでしょうか。その心、彼の気持ちに想いを馳せることは、今日、与えられたメッセージを深く味わうことになると思います。それは、私たち自身が、主イエスと「どのように向き合っているのか」を知るための一つ指標、バロメーターとなります。

  そもそも、百人隊長とは何者でしょうか。一言で言うなら、ローマの兵隊です。当時、ユダヤはローマ帝国の支配下にありました。百人隊長は、文字通り100人のローマの兵隊を束ねる隊長です。ある聖書の学者によると、百人隊長はローマ軍に長く勤務する正規兵であり、軍隊の規律と団結を保つ責任を与えられ、ローマ軍の中でも最も優秀な軍人であったと言われます。一言で言うなら、真面目な立派な人でしょうか。ただし、主なる神さまを信じるユダヤ人からしたら、異邦人です。つまり、主なる神さまを信じていない、モーセの律法を守って生きていない汚れた人です。その百人隊長が、イエスさまのところへとやってきました。そこには、ちゃんと理由がありました。彼の僕が病気であると言うのです。

  百人隊長の僕は、「中風で家に寝込んでいた」と聖書にはあります。これが、現在の中風という病気そのままかはわかりませんが、元々のギリシャ語から考えると、「麻痺症状を起こして倒れました」と訳せます。何にせよ、体の麻痺に関する病気です。実は、「僕」という言葉は、「子ども」「息子」とも訳せます。仮に自分の「子ども」となると、親心が加わって、病気であることを心配する気持ちの印象は変わってくるでしょう。

   主イエスは、そこで「わたしが行って、いやしてあげよう」と言われます。「なんとお優しいイエスさま」と読む、聖書の読み方が一つです。もう一つ、ギリシャ語の解釈ですが、「私が行って、癒やせとでも?」と疑問形で翻訳できます。「なんと冷たいイエスさま」と読めます。イエスという方は、一体どのような方だったのだろう。疑問や感心は、聖書を読む度に、いつも深まるばかりです。ただ、これも実は、前者でも、後者でも、どっちでも良いと思います。大事なことは、その後の百人隊長の対応です。百人隊長は言います。「主よ、わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。ただ、ひと言おっしゃってください。そうすれば、わたしの僕は癒やされます。」

  恐らく、主イエスは、百人隊長の言葉を聞かれて嬉しかったのだと思います。旧約聖書の時代から神の民として御言葉に聴き続けてきた「イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない」と言わせるほどです。

  主イエスが、百人隊長に言われました。「帰りなさい。あなたが信じたとおりになるように。」ここで、イエスさまは、「病気が治るように」とは言われませんでした。「あなたが信じたとおりになるように」と言われたのです。もし、百人隊長が「病気が治ること」を信じていなかったら、「信じたとおりに」はなっていなかったとも考えられます。「信じたとおりに」なるためには、「どのように信じているか」が問われています。しかし、百人隊長が信じたことは、病気が治ること以前に、キリストの言葉を権威ある者の言葉として、神の御言葉を語る者として信じたことです。

  私たちの願いや信じる力は、とても脆く、弱いのかもしれません。私たちの心は、時にまるで、芦のように、右へ左へと揺れ動くように、何が大切なのか、どこに向かっているのか、本当は何を望んでいるかもわからなくなります。私たちは、そんなに強くありません。いつも強くあろうとして、弱い自分に嘆くばかりです。しかし、そのような私たちだからこそ、今日もこのようにして、神さまの御前に立ちます。主イエスに近づき、呼びかけます。「ただ、ひと言おっしゃってください。」このように、主イエスに寄り頼むのです。

  そのような私たちに、主イエスは言われるのです。「帰りなさい。あなたが信じたとおりになるように。」この言葉によって、百人隊長が信じたとおり、病は癒やされるということは実現します。それは、主イエスが、この言葉を語られた、ちょうどその時です。百人隊長は、病が癒やされたことを知りません。しかし、彼の喜びは、既にこの言葉を聴いた時にはあったのです。彼は、主イエスのもとを心から安心して、深い喜びのうちに帰って行きました。「信じたとおりに」主イエスの言葉は実現します。私たちもまた、主の御言葉に聴いて帰って行きます。今、私たちの心には、どのような「信じたこと」があるでしょうか。主イエスはそれをご存知です。私たちは、主の御言葉によって「信じたとおりに」なるからこそ、いや、もう既になっているからこそ、その帰り道は、本当はどんな時も喜びに満たされているのです。