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礼拝説教3月28日

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「空の鳥を見なさい、野の花を見なさい」 マタイによる福音書6章25ー34節 石丸 泰信 牧師 録音 [YOU TUBE]  主は 「明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む」 と言います。擬人化されたような言い方です。「あなた自ら」ではなく、 「明日自ら」 が思い悩んでくれると言うのです。この擬人化された 「明日」 は「父なる神」と言い換えても良いかも知れません。明日のことは本当はわたしたちには手が届きません。いくら健康でいようと、100年分の財産を持っていようと明日の命のことは分かりません。だから心配になります。しかし、その明日のことは神自らが思い悩む(=気に掛けてくださる)。だから、主は 「思い悩むな」 と言われるのです。   今日、向河原教会の牧師として最後の説教奉仕になりますが、この9年間、思い悩むことの少ない人生であったと思います。「石丸先生は、こうしたいとか、幸せになりたいとかはないのですか」と聞かれたことがあります。「ないですね」と答えました。どうしてかと言うと、ずっと幸せだからです。幸せでない瞬間が一瞬もない。人は言います。空き巣や台風、洪水。どうしてあなたの周りにはいつも大変なことばかりが起こるのか。けれども、それを人ごとのように聞いてしまう程、満たされた9年間でした。それは、重荷を一人で背負うことがなかったからだと思います。いつもキリスト者の交わり、教会の中に置いてもらっていました。もちろん、時に思い悩むこともありましたが、それは直接に自分の手の届かない事ばかり。一人で背負ったとしてもどうにもならないことであったと思います。   主は 「思い悩むな」 と言われた際、 「空の鳥をよく見なさい。・・・野の花がどのように育つのか、注意して見なさい」 とも言われました。 「よく」 、 「注意して」 です。これは一度立ち止まらないといけない命令です。ある人は、これを「休め」という命じだと言い、次のように言います。人はどこか重大な問題に関しても自分で解決できると思っている程に自分を大きなものとして見てしまっている。自分が背負わなければ誰が一体背負うのかと気負って、自分が救い主か何かだと思ってしまっている、と。つまり過信。自分の手が届くような気がして思い悩むのは過信だと言っている訳です。   

礼拝説教3月21日

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「二人の主人に仕えることはできない」石丸泰信牧師 マタイによる福音書6章22ー24節 録音 [YOU TUBE]   「体のともし火は目。目が澄んでいれば、あなたの全身が明るいが、濁ってい れば、全身が暗い」 と主イエスは言われます。あなたの目は世界を見るとき、澄んだ目で見ていますか。それとも、濁った目で見ていますか、と言っています。この言い方でイメージしているのは「窓」です。全身は部屋、目は外から光が入る窓です。窓(目)が綺麗なら、光はまっすぐ部屋の中に入ります。けれども、窓が歪んでいたり、汚れていたら光は遮られて部屋の中は暗くなっていくのです。  窓が歪んでいるとは、第一には「偏見」、偏ったものの見方のことです。偏見は人の判断力を誤らせます。ある人は言います。「偏見は新しい道をさえぎり、踏みならされた道のみを歩もうとする」。また、歪んだ目は「嫉妬」を生みます。聖書は「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい」と言います(ローマ12:15)。しかし、人の喜びを喜べないときがあります。人の成功は自分の失敗とは関係がないはずなのに、人が成功すると自分の富を奪われたように感じてしまうのです。さらに、目の歪みは人を「自己欺瞞」にさせます。自分の本当の姿を見せなくし、相手の姿をも歪ませます。人と比較するとき、自分の良いところばかりが見え、相手の悪いところばかりが見えます。その逆も然り。人と比べて自分の欠点ばかりを数え上げてしまう。それも欺瞞です。どうして偏見を持ち、嫉妬をし自分を欺いてしまうのか。光を見ていないから。だから全身が暗いのです。  では 「光」 とは何か。聖書はこう唄います。「あなたの御言葉は、わたしの道の光 わたしの歩みを照らす灯」(詩119:105、讃美歌45番)。御言葉(=神の言葉、聖書の言葉)を見つめるとき、あなたの全身が明るい。あなたの中に光が灯ると聖書はいいます。それは第一には、神の国、神の義を見つめ求めるときです。そして「御国が来ますように、御心が行われますように、地の上にも」(主の祈り)と祈るときです。不思議な祈りです。御心、つまり、天の父であるあなたの思いが、この地上で実現しますように、と祈るからです。本当は、わたしたちは、わたしの願いがこの地で実現しますようにと祈りたいのではないかと思います。しかし、主は、こ

礼拝説教3月14日

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「あなたの富のあるところに、あなたの心もある」 小松 美樹 伝道師 マタイによる福音書6章19ー21節  人生は大きな川のようで、流れる時間の中を歩みます。その中で教会は毎年繰り返し教会暦を覚えて過ごし、今は受難節の中を歩んでいます。その歩みの中で一週間ごとにやってくる今日の一日を、私たちは大切な区切りとして、一時手を止め、目を閉じ、口を閉じ、静かに耳を傾けようとしています。私たちはどこへ向かって生きているのか、見失いやすいものですが、それは神の国の完成へと向かう中にいるのです。礼拝の度に神の言葉を聞いて、神の思いを知るようになる。今日の聖書は、その私たちの進んでいる先に何を見つめているのか。何をみて生きているのかということが問われるものであると思います。先の見えない将来を見ているのか。来るべき神の国に向かう将来をみているのか。  この一年は特に経済が低迷し、生活の不安と困難さに襲われました。お金は生活に欠かせないものです。将来や日々の生活に経済の不安は付き物です。  主イエスは「 あなたがたは地上に富を積んではならない 。」と言います。富というと高額な財産を思うかもしれませんが、日常の「蓄え」でもあります。また富とは私たちが頼りにしているもの、信頼しているものであると言えるでしょう。 頼りにする、信頼をするとはそこに「心」があり、拠り所としているのです。これがあるから自分の人生が、生活が支えられる、と思って大事にしているもの。失うまいと大切に守っているものです。主イエスはそのような「富」をどこに積むか、どこにそれを蓄えているかと問われるのです。  「 あなたの富のあるところに、あなたの心もあるのだ。 」あなたのこころはどこに向かっていますか?人は気ずかぬ間に大切なものに心が向いていて、時間をかけているものです。自分の財を、富を抱えて独り占めして、拠り所とする思いに対して「地上に富を積んではならない。そこでは、虫が食ったり、さび付いたりするし、また、盗人が忍び込んで盗み出したりする」と主イエスは言います。地上に蓄えられた富は失われていくものです。  ルカ福音書(12:13‐)やマルコ福音書(10:17‐)では「自分の持ち物を売り払って施しなさい」と自分の持っているものを全て、貧しい人にあげてしまう。それが富を天に積むことだと言われます。そ

礼拝説教3月7日

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「信仰生活の装い」 石丸泰信 牧師 マタイによる福音書6章16ー18節   「断食するときには、あなたがたは偽善者のように沈んだ顔つきをしてはならない。・・・あなたは、断食するとき、頭に油をつけ、顔を洗いなさい」 と主イエスは言います。 「頭に油をつけ、顔を洗」 うというのは祭りや祝いの装いです。断食は、苦しみ、悲しみ、悔い改めの表現でした。その断食の時、なぜ、晴れやかな装いを忘れるなと主は言われるのでしょう。   人の苦しみの最も大きなことの一つは、分からないときだと思います。「なぜ、このようなことが起こったのか」。同じ痛みでも、その理由がはっきりしているか否かで不安が違います。分かることは救いです。けれども、分からないことはあるのです。主イエスも「なぜ」の中に置かれました。十字架の上で「わが神、わが神、なぜ、わたしをお見捨てになったのですか」と叫ばれました。しかし、神の沈黙のまま。主は息を引き取ります。「信仰こそ、人生の問いに答えを与えてくれるもの」だと考えている人にとっては突き放される場面です。しかし、答えも救いもない場所に確かに神はおられました。主イエスが「わが神」と呼んだ、その呼びかけに、神がそこにおられたことが示されています。これがインマヌエル(=神は共におられる)の神の恵みです。 わたしたちは「なぜ」に対する答えを求めます。しかし、インマヌエルの神の恵みは、神がわたしに何か示してくださる以前に「神が共にいてくださる」ことなのです。わたしたちが悲しむとき、共に「なぜ」に身を置いてくださる。だから、晴れやかな装いを忘れてはいけない。   そして、答えが示されるときが来ることを聖書は約束しています。ルカ福音書の「エマオへの道」の場面です(ルカ24:13-)。暗い顔をしていた二人の人に復活の主イエスが近づきます。二人は主であることに気がつきません。そこでは同じ事を話しているのに会話がズレるのです。二人は主の十字架の出来事を「この数日で起こったこと」と言います。対する主イエスは十字架の出来事のことを「モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり・・・説明され」ました。二人は、このことを後で振り返って、あのとき、「わたしたちの心は燃えていた」と言うのです。どうしてか。ある人はスケール(尺度)が違うからだと言います。二人にとって十