礼拝説教3月21日


「二人の主人に仕えることはできない」石丸泰信牧師
マタイによる福音書6章22ー24節

[YOU向河原教会の入口TUBE]

 「体のともし火は目。目が澄んでいれば、あなたの全身が明るいが、濁ってい れば、全身が暗い」と主イエスは言われます。あなたの目は世界を見るとき、澄んだ目で見ていますか。それとも、濁った目で見ていますか、と言っています。この言い方でイメージしているのは「窓」です。全身は部屋、目は外から光が入る窓です。窓(目)が綺麗なら、光はまっすぐ部屋の中に入ります。けれども、窓が歪んでいたり、汚れていたら光は遮られて部屋の中は暗くなっていくのです。
 窓が歪んでいるとは、第一には「偏見」、偏ったものの見方のことです。偏見は人の判断力を誤らせます。ある人は言います。「偏見は新しい道をさえぎり、踏みならされた道のみを歩もうとする」。また、歪んだ目は「嫉妬」を生みます。聖書は「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい」と言います(ローマ12:15)。しかし、人の喜びを喜べないときがあります。人の成功は自分の失敗とは関係がないはずなのに、人が成功すると自分の富を奪われたように感じてしまうのです。さらに、目の歪みは人を「自己欺瞞」にさせます。自分の本当の姿を見せなくし、相手の姿をも歪ませます。人と比較するとき、自分の良いところばかりが見え、相手の悪いところばかりが見えます。その逆も然り。人と比べて自分の欠点ばかりを数え上げてしまう。それも欺瞞です。どうして偏見を持ち、嫉妬をし自分を欺いてしまうのか。光を見ていないから。だから全身が暗いのです。
 では「光」とは何か。聖書はこう唄います。「あなたの御言葉は、わたしの道の光 わたしの歩みを照らす灯」(詩119:105、讃美歌45番)。御言葉(=神の言葉、聖書の言葉)を見つめるとき、あなたの全身が明るい。あなたの中に光が灯ると聖書はいいます。それは第一には、神の国、神の義を見つめ求めるときです。そして「御国が来ますように、御心が行われますように、地の上にも」(主の祈り)と祈るときです。不思議な祈りです。御心、つまり、天の父であるあなたの思いが、この地上で実現しますように、と祈るからです。本当は、わたしたちは、わたしの願いがこの地で実現しますようにと祈りたいのではないかと思います。しかし、主は、こう祈りなさいといって「御心が成りますように」という祈りを教えてくれました。
 二人の主人の話が後に続いています。「だれも、二人の主人に仕えることはできない。・・・あなたがたは、神と富とに仕えることはできない」。この「富」は元の言葉では「マモン」という言葉です。マネーの語源。意味は「信頼できる所有物」。「マモン」は神格化された「富」の事です。言い換えれば、これがあったら安心、これがあれば幸せ。これを手に入れるまで、わたしは幸せになれないと人に思わせるものです。人はそれに振り回され、時に奴隷のようになります。それがここで言っている「富」です。その願望や富のことを考えるとき、必ず「わたしの」という言葉が接頭に付くと思います。わたしの願い、わたしの思い、叶ったら安心・幸せ。しかし、主は、その富と神とに仕えることはできないと言われているのです。
 よく分かると思います。何か一つだけ願いが叶うとして何を願うでしょうか。わたしの富(財産、就職、合格)を願うか、わたしたちの喜び(新型ウイルスの収束、飢餓の克服、争いの終焉)を選ぶか。迷うと思います。一方を選べば他方は叶いません。そうであれば、誰でも、まず、わたしの願いを思い浮かべるのではないでしょうか。まず、わたし。次にわたしたちです。神の思いよりも、まずわたしの思い。けれども、わたしの願いが叶うと、どうしてそれが幸せに繋がると思っているのか。そう思い込んでいるだけかも知れません。実は、それは単なる偏見、嫉妬、欺瞞であるかも知れない。主は「わたしの」という祈りではなく「わたしたちの」、もっといえば、「父よ、あなたの」という祈りをしなさい。そうすれば、必要なものは与えられるから、と言いました。
 ある牧師は、教会は一人で立っているのではなく、他の教会と共に立っていると言い、自分の責任のある教会と隣の教会を同じように見ます。まず、自分の教会、ではなく、他の教会のことにも同じように汗をかく。そういう牧師がいます。また、あるキリスト教学校を設立した宣教師は「自分に力があるのに他者を助けなかったときに苦痛を感じる人になりなさい」という言葉を残しました。このように感じることができるとき、わたしたちは初めて人も物も正しく観ることができるのだと思います。
 わたしの「富」ばかりを見るとき、人は振り回されます。他方、神はどのような所かと思い起こし、神はわたしに何を期待しているか、そのことを見たとき、わたしたちの目は明るくなってくるのだと思います。毎日はできないかもしれません。けれども、礼拝の中で御言葉に留まるとき、わたしの願いを手放しても大丈夫だと思えるほどの、また、「わたしの」という思いでは得ることのできなかった本当の安心を、体の中にともすことができるのだと思います。