礼拝説教3月14日



「あなたの富のあるところに、あなたの心もある」
小松 美樹 伝道師
マタイによる福音書6章19ー21節

 人生は大きな川のようで、流れる時間の中を歩みます。その中で教会は毎年繰り返し教会暦を覚えて過ごし、今は受難節の中を歩んでいます。その歩みの中で一週間ごとにやってくる今日の一日を、私たちは大切な区切りとして、一時手を止め、目を閉じ、口を閉じ、静かに耳を傾けようとしています。私たちはどこへ向かって生きているのか、見失いやすいものですが、それは神の国の完成へと向かう中にいるのです。礼拝の度に神の言葉を聞いて、神の思いを知るようになる。今日の聖書は、その私たちの進んでいる先に何を見つめているのか。何をみて生きているのかということが問われるものであると思います。先の見えない将来を見ているのか。来るべき神の国に向かう将来をみているのか。

 この一年は特に経済が低迷し、生活の不安と困難さに襲われました。お金は生活に欠かせないものです。将来や日々の生活に経済の不安は付き物です。

 主イエスは「あなたがたは地上に富を積んではならない。」と言います。富というと高額な財産を思うかもしれませんが、日常の「蓄え」でもあります。また富とは私たちが頼りにしているもの、信頼しているものであると言えるでしょう。

頼りにする、信頼をするとはそこに「心」があり、拠り所としているのです。これがあるから自分の人生が、生活が支えられる、と思って大事にしているもの。失うまいと大切に守っているものです。主イエスはそのような「富」をどこに積むか、どこにそれを蓄えているかと問われるのです。


 「あなたの富のあるところに、あなたの心もあるのだ。」あなたのこころはどこに向かっていますか?人は気ずかぬ間に大切なものに心が向いていて、時間をかけているものです。自分の財を、富を抱えて独り占めして、拠り所とする思いに対して「地上に富を積んではならない。そこでは、虫が食ったり、さび付いたりするし、また、盗人が忍び込んで盗み出したりする」と主イエスは言います。地上に蓄えられた富は失われていくものです。


 ルカ福音書(12:13‐)やマルコ福音書(10:17‐)では「自分の持ち物を売り払って施しなさい」と自分の持っているものを全て、貧しい人にあげてしまう。それが富を天に積むことだと言われます。それは自分の富を捨てることです。自分が持っているものや、自分の富として信頼しているもの、心の拠り所を手放すことができるかというのです。自分の持っているものにより頼み、そこに安心と確かさを求めることをやめることです。


 蓄えることは、誘惑に繋がりやすいものなのだと思います。富が私たちの生活を支配していて、大きな悩みとなり、生活の大部分を占めてしまうものである。主イエスは富を否定しませんでしたが、富が人の心を束縛して、支配する危険を持つものであることをよくご存知でした。だからこそ「日毎の糧を今日も与え給え」という祈りを教えられたのです。それは私たちに与えられた富は神から頂いたものであり、また私たちは神に養われているのだということです。


 だから「富は、天に積みなさい」と言います。神のもとに、神に喜ばれる富を蓄えるのです。「そこでは、虫が食うことも、さび付くこともなく、また、盗人が忍び込むことも盗み出すこともない」。地上の富があれば生きていける。それがなければ生きていけないと、何よりも頼りになるかのように見えますが、いつまでもそれを価値あるものとして保持できません。地上に蓄えられた富はいつか失われていくものなのです。

 

 富が私たちの命を守り、生活を守るものだと考えているならば、そこに私たちの心もあるのです。盗まれたり、虫に食われるような物質に幸福を求め、心を奪われているのはあまりにも不安定なのです。だから私たちの価値観は、倒産して金を失えば同時に幸福も失う思いに駆られ、人生が転落するというのです。人が中心の価値観のままでは、富は絶えず変化し、また簡単に危機にさらされてしまいます。主イエスを通して教えられる父なる神に照らされて、この地を見る時、私たちの富を積むべき場所が変わります。


 「御心が行われますように、天におけるように地の上にも」(6:10)。自分の願望ではなく、神の思いがなるように祈り、私たちの思いではなく、神様の思いが実現するように私たちは生きていきたいと思います。そのことを願いながら神のもとに富を積み上げる。そのことを喜ぶ人生でありますように。天の国が来るようにと願いながら、その将来を望み見ながら歩みましょう。