礼拝説教3月7日



「信仰生活の装い」 石丸泰信 牧師
マタイによる福音書6章16ー18節

 「断食するときには、あなたがたは偽善者のように沈んだ顔つきをしてはならない。・・・あなたは、断食するとき、頭に油をつけ、顔を洗いなさい」と主イエスは言います。「頭に油をつけ、顔を洗」うというのは祭りや祝いの装いです。断食は、苦しみ、悲しみ、悔い改めの表現でした。その断食の時、なぜ、晴れやかな装いを忘れるなと主は言われるのでしょう。 
 人の苦しみの最も大きなことの一つは、分からないときだと思います。「なぜ、このようなことが起こったのか」。同じ痛みでも、その理由がはっきりしているか否かで不安が違います。分かることは救いです。けれども、分からないことはあるのです。主イエスも「なぜ」の中に置かれました。十字架の上で「わが神、わが神、なぜ、わたしをお見捨てになったのですか」と叫ばれました。しかし、神の沈黙のまま。主は息を引き取ります。「信仰こそ、人生の問いに答えを与えてくれるもの」だと考えている人にとっては突き放される場面です。しかし、答えも救いもない場所に確かに神はおられました。主イエスが「わが神」と呼んだ、その呼びかけに、神がそこにおられたことが示されています。これがインマヌエル(=神は共におられる)の神の恵みです。わたしたちは「なぜ」に対する答えを求めます。しかし、インマヌエルの神の恵みは、神がわたしに何か示してくださる以前に「神が共にいてくださる」ことなのです。わたしたちが悲しむとき、共に「なぜ」に身を置いてくださる。だから、晴れやかな装いを忘れてはいけない。 
 そして、答えが示されるときが来ることを聖書は約束しています。ルカ福音書の「エマオへの道」の場面です(ルカ24:13-)。暗い顔をしていた二人の人に復活の主イエスが近づきます。二人は主であることに気がつきません。そこでは同じ事を話しているのに会話がズレるのです。二人は主の十字架の出来事を「この数日で起こったこと」と言います。対する主イエスは十字架の出来事のことを「モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり・・・説明され」ました。二人は、このことを後で振り返って、あのとき、「わたしたちの心は燃えていた」と言うのです。どうしてか。ある人はスケール(尺度)が違うからだと言います。二人にとって十字架は「ここ数日の出来事」。主は「聖書全体を通して語られていた大きな出来事」。彼らの顔つきが変わったのは、神の尺度で同じ苦しみを見たときです。この時がわたしたちにも用意されているというのです。だから、装いを新たにすることが出来ます。 
 さて、主が、ここで問題にされている「断食するときには」というのは、年に一度の贖罪の日に端を発します。理由を問わず、すべての人が断食しないといけない日。信仰の訓練のような日でした。その中で、厳格な信仰者たちは、年に一度だけでなく、さらの週に2度、この信仰の訓練を行うようになった。その際、「沈んだ顔つきをして」周りにアピールしていたことを、主は戒めているわけです。けれども、信仰の訓練としての断食は優れていると思います。
 わたしたちは断食をしないかも知れませんが、主の祈りで「日用の糧をください」と祈ります。「糧」を直訳すれば「パン」です。今日のパンをください、感謝しますと本当に祈っている人は、幸いなことに少ないと思います。少なくとも今日のパンはある。だから、パンより、もっと豊かなものをくださいという祈りをしたいという方が本当かも知れません。けれども、主は、そう願うわたしたちに「今日のパンをください」と祈るように教えられました。裕福な人は、こう思っているかもしれません。自分の生活は自分で保つことが出来る。神に頼る必要は無い。困ったときにこそ神の出番。しかし、1日でも断食してみれば、よく分かります。1日食事を取れないだけで人は、こんなにも弱るのか、ということ。普段、いかに膨れ上がったことを神に求めていたか、ということ。本当に求めることは、自分の豊かな食事ではなく、誰もが、日ごとのパンに与り、この空腹を誰も味合わなくて済むように、ということ。それを現代のキリスト者は主の祈りで思い出し、当時の聖書の人々は断食で思い起こしていたわけです。
 いずれにしても断食という信仰の訓練は、人に見せるためではなく、神の恵みを思い出すために行うわけだから、神の御前に出るに相応しい装いをしなさい。そのとき、神を誤解無く見つめることが出来るのであれば、そのあなたの顔は、祭りの時のような喜んだ顔になっているだろうと主は言われるわけです。 最後に、気をつけないといけないことは、主は神ご自身を「隠れたところにおられるあなたの父」「隠れたことを見ておられるあなたの父」と紹介しています。わたしたちが人目を気にせず隠れて善行をするとき、この父なる神以外に知られることはありません。わたしたちの施し、祈り、断食が他の人に見えないのであれば、反対に、他の人の善い業もわたしには見えないということです。自分の善い業はいつも人には気がつかれません。そして、人の善い業に自分はいつも気がつかないのです。