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礼拝説教12月27日

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「救いの喜びへ」 上野 峻一 先生 ルカによる福音書2章21ー38節   今日の聖書には、シメオンとアンナという二人の信仰深い高齢者が登場します。シメオンの年齢の記載はありませんが、長く神殿で仕え、死を意識した歳であることがわかります。またアンナに関しては、84歳以上であることは明確です。この二人が、生まれて数ヶ月のイエスさまにお会いします。第2章27節には 「霊に導かれて神殿の境内に入って来たとき」 とありました。聖書は、この言葉を通して、シメオンが神殿の境内に入って来たことが、決して偶然ではないことを伝えます。そこには、神さまの計画があり、シメオンが出会わなければならない方がいたということです。私たちは、神さまのご計画の中を生きています。主なる神さまを信じる人は、私たちに起こる出来事を「偶然」という捉え方をしません。むしろ、このことの意味は何なのかと神さまに問いかけることをします。  シメオンは、第2章25節では 「正しい人」 であると言われます。律法をちゃんと守って生活する人です。律法、神さまの言葉に従って、生きる人です。続く言葉には、「イスラエルが慰められるのを待ち望み」とあります。律法、神の言葉に従う「意味」をちゃんとわかっていたのです。そして、決定的なのは、彼には「聖霊がとどまっている」ということです。もちろん、聖霊は目には見えません。あるドイツの神学者は、聖霊は感じるものだと言いました。聖霊を感じさせる人、それがシメオンであるのかもしれません。彼は御言葉を信じていました。その内容は 「主が、遣わすメシアに会うまでは決して死なない」 ということです。  もう一人のアンナは、やもめ、いわゆる未亡人でした。夫との7年間の結婚生活を経て、その後も、神殿を離れず、断食したり祈ったりして、夜も昼も神に仕えていたとあります。夫と死に別れても、神を信じて、ひたすらに、神に仕える歩みを続けていたのです。また彼女は、 「預言者」 であったと言われます。いつから預言者であったかわかりません。けれども、どのような人生の困難があっても、神を信じて仕え続ける中で、神の言葉を聴き、語る使命を与えられたのでしょう。女預言者というのは、聖書の中でも、指折り数えるほどしか出て来ない、とても珍しい人です。  この二人の信仰深さに共有することは「神を信じて待つ」

礼拝説教12月20日

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「光が照らすクリスマス」 小松美樹 伝道師 ルカによる福音書 2章1~20節  今日の聖書には、羊飼いたちによる最初のクリスマス、つまりキリストを礼拝する姿が描かれています。羊飼いは天使から救い主が生まれたことを聞いて、会いに行き、喜び賛美して、自分たちの日常へと帰って行きました。     わたしたちは救いの言葉を求めています。この日本の状況に、複雑な思いに、神の言葉を求めています。ルカが描くクリスマスの物語においても、人々は神の救いが起きるのを待っていました。皇帝の勅令による住民登録で、町はごった返し、皆忙しくしていました。      住民登録が行われるその陰に、追いやられた夫婦がいました。マリアとヨセフです。賑わう町から追いやられて、初めての子を生むとき、宿屋に泊まることができませんでした。迎え入れてくれるような所はどこにもなかったのです。そして生まれた赤ん坊は、飼い葉桶に寝かされました。  同じように追いやられた羊飼いがいます。忙しそうな町の人々から離れた野原にいました。住民登録とは無関係に行動しています。羊飼いの多くは自分の羊を所有せず、雇われて世話をしています。財産も家もなく、しばしば、野宿をして夜を過ごします。住民登録は税を徴収するために行われたので、羊飼いには徴収する財産は無く「数えるに値しない者」でした。    「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生れになった」。ルカは羊飼いたちのために救主が生まれたと語ります。そしてそれを聞くわたしたちに、あなたも一人の羊飼いなのだということを伝えているのだと思います。     羊飼いは突然光に照らされて、大きな恐れを感じました。自分の内側にあるのもが、明るみに出ることは恐ろしいことです。しかし、羊飼いを照らした光が何の光かわかりました。一人だと思っていたわたしを照らす光。それは、わたしという存在が神の目に見つけられているのだということ。あなたのために、救い主が生まれたという嬉しい知らせの光でした。    見向きもされなかった羊飼いは、嬉しかったと思います。だから信じられないような光景の中、告げられた言葉を信じて、生まれたばかりの救い主を探しに行ったのです。嬉しくも、関心もなければ、そのまま野宿を続けたでしょう。  見向きもされないことに慣れていたし、自

礼拝説教12月13日

「今がどんなときであるか知っている」 石丸泰信 牧師 ローマの信徒への手紙 13章11~14節  アドヴェントはクリスマスに誕生された主イエスを改めて信仰を持って迎え入れようと準備する期節です。そして、再び来られると約束された主イエスの到来を待つ準備の時でもあります。その主の来臨を告げる聖書の言葉の最初に 「更に、あなたがたは今がどんな時であるかを知っています」 とあります。今がどんな時か。医療が逼迫している時です。あるいは、それぞれの方が経験している時というのもあると思います。大事な仕事が控えている時、試験が控えている時、身体をいたわる時、決断しないといけない時。しかし、今日、聖書がキリスト者に向けて言う「時を知る」、「時を知っている」とは、信仰と関わるものです。信仰とは神への信頼です。本当に時を知るとはキリストを知っている、神を知っている、それにも増して神に自分が知られている。そういう関係の中に入れられて、その中で今の時を生きているということなのだと思います。  それは、かつて起こった主の降誕の出来事を知っていて、また、終わりの時に来られる主イエスを知っているということ。つまり、今が、その「中間の時」にあって今もキリストとの関係の中で生きているということ、それが「時を知っている」生き方です。こうも言えるかも知れません。今の時が自分の目にどのように映ろうとも、それはまだ途中であるということ。わたしたちは一人ひとりに神の計画が備わっていることを知っています。その計画も、まだ途中なのです。短期の人は自分の目に悪いこと、嫌なことがあるとすぐに、もう駄目だという烙印を押したくなります。けれども、まだ途中なのです。    ある人は、今日の聖書の箇所を「第二のクリスマス」が描かれているといいます。第一のクリスマスは主イエスの誕生の礼拝です。クリスマスという言葉は主の誕生を指す言葉ではありません。「クライスト・マス(ミサ)」=「キリスト・礼拝」を意味する言葉です。そういう意味で、第二は主が再び来られる時の礼拝です。第一のクリスマスの際、誰も来ませんでした。やってきたのは天使の告知を聞いて信じた羊飼いと占星術の学者たちだけです。彼らは旧約の預言の言葉を知り、皆が眠っている夜更けに昼間の恰好をして歩いてやってきました。知っていたからです。他の人々は、まさか明日、クリスマスの日が

礼拝説教12月6日

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「切り株から一つの芽が萌えいで」 石丸泰信 牧師 イザヤ書11章1ー10節   イザヤ書の平和の王の預言の言葉を読みました。その王には主の霊が留まると言われます。 「エッサイの株からひとつの芽が萌えいで その根からひとつの若枝が育ち その上に主の霊がとどまる。知恵と識別の霊 思慮と勇気の霊 主を知り、畏れ敬う霊」 。その王の支配は 「この地」 を越え 「国々」 、自然に及び 「水が海を覆っているように、大地は主を知る知識で満たされる」 と言われます。 「主を知る」 とは神が分かるということです。単なる知識としてではなく、ああ神はこういう方なのだ、という風に神の思いがわかるということです。同時に、それはわたしたち自身のこともわかるということです。造り主の思いが分かれば、わたしたちが造られた目的や意味も分かります。今、なぜ、わたしはこうなのか、これまでの歩みの意味、あの経験の意味。平和の王の執り成しと贖いの中で自分の赦された罪がわかります。  そして、 「主を知る」 とは 「主を畏れ敬う」 ようになるということです。わたしたちは畏れるべきものを畏れず、恐れるべきでないものを恐れます。だから不安になり、争いが起きます。しなくてよい心配をし、すべき心配があるということに気がつきません。 「主を畏れ敬う霊に満たされる」 というのは、畏れるべき方を畏れて、恐れるべきでないものを恐れなくなるということです。その時、世界もわたしたちの心も平和になる。  この紀元前700年頃のイザヤの預言をキリスト教会は主イエスの誕生に成就を見ました。そして、その王は 「エッサイの株から」 と言います。エッサイとはダビデ王の父、つまり、ダビデの系図から出る。しかし 「株」 と言います。切り株のことです。つまり、一度切り倒されなければならないというわけです。イスラエル王国の歴史は事実、一度、切り倒されました。しかし、それでお仕舞いではなく、また、その続きでもない、新しい 「ひとつの若枝」 が最初の木と同じ道を行かず、異なるものとして育ってゆく。それがクリスマスに生まれるイエス・キリストです。  同じ血筋だが新しい王。ここに連続性と非連続性があります。そして、このような出来事は世界の大きな歴史に現れるだけでなく、わたしたち一人ひとりの人生の中にも起こります。マリアは天使