礼拝説教12月20日



「光が照らすクリスマス」 小松美樹 伝道師
ルカによる福音書 2章1~20節

 今日の聖書には、羊飼いたちによる最初のクリスマス、つまりキリストを礼拝する姿が描かれています。羊飼いは天使から救い主が生まれたことを聞いて、会いに行き、喜び賛美して、自分たちの日常へと帰って行きました。
    わたしたちは救いの言葉を求めています。この日本の状況に、複雑な思いに、神の言葉を求めています。ルカが描くクリスマスの物語においても、人々は神の救いが起きるのを待っていました。皇帝の勅令による住民登録で、町はごった返し、皆忙しくしていました。
     住民登録が行われるその陰に、追いやられた夫婦がいました。マリアとヨセフです。賑わう町から追いやられて、初めての子を生むとき、宿屋に泊まることができませんでした。迎え入れてくれるような所はどこにもなかったのです。そして生まれた赤ん坊は、飼い葉桶に寝かされました。
 同じように追いやられた羊飼いがいます。忙しそうな町の人々から離れた野原にいました。住民登録とは無関係に行動しています。羊飼いの多くは自分の羊を所有せず、雇われて世話をしています。財産も家もなく、しばしば、野宿をして夜を過ごします。住民登録は税を徴収するために行われたので、羊飼いには徴収する財産は無く「数えるに値しない者」でした。
   「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生れになった」。ルカは羊飼いたちのために救主が生まれたと語ります。そしてそれを聞くわたしたちに、あなたも一人の羊飼いなのだということを伝えているのだと思います。 
   羊飼いは突然光に照らされて、大きな恐れを感じました。自分の内側にあるのもが、明るみに出ることは恐ろしいことです。しかし、羊飼いを照らした光が何の光かわかりました。一人だと思っていたわたしを照らす光。それは、わたしという存在が神の目に見つけられているのだということ。あなたのために、救い主が生まれたという嬉しい知らせの光でした。
   見向きもされなかった羊飼いは、嬉しかったと思います。だから信じられないような光景の中、告げられた言葉を信じて、生まれたばかりの救い主を探しに行ったのです。嬉しくも、関心もなければ、そのまま野宿を続けたでしょう。
 見向きもされないことに慣れていたし、自分の気ままな生活に不満も持っていなかったかもしれません。けれども、自分のために救い主が生まれたのだと聞いたとき、羊飼いは変わりました。そうして、今まで気がつかなかった、心の声があふれ出しました。その後は相変わらずの日常が続きます。けれども、もう以前とは違います。
   わたしたちも羊飼いと同様に、神を見たことはありません。けれども言葉を聞いて集まってきました。そして会ったこともないのに、教会で語られる主イエスの言葉を聞くと、その言葉に慰められ、触れられたように心が熱くなり、涙するときもあります。主イエスがわたしのために、共にいること、語られていること。わたしのために生まれ、いのちを捨てて生かそうとして下さるお方だということをありありと知りました。
 コロナによる生活の変化は年代を問わず、不安を抱え、ストレスを持つことになったと思います。
  生活が一変したり、卒園式、卒業式が変わったり、進学したのに何も思うように進まない。就職もうまくいかない。仕事も、日常の買い物も…自分の日常だけで精一杯です。その毎日の中に大きな変化が起きたのでは無く、非常に小さな出来事がクリスマスの時起きていました。人口調査で相手にもされないような小さな命が、後に皇帝を揺るがし、世界を変えることになるのです。わたしたちの救い主は、高いところにとどまるような方ではありません。自らの身分を低くする方で、この方こそ、真理の王となられる方です。  最も貧しく、さみしい飼い葉桶に生まれ、わたしたちの全てを背負って十字架へと向かわれた方は、恥の最高潮に掲げられて死なれました。救い主は、どこまでも、わたしたちを置いてゆくことなく、包み込もうとされる方です。そのような、わたしたちを誰一人として取り残すことのないようにと歩まれたお方を、わたしたちは頭を上げ、希望を持って待っています。
 大きな恐れは、主イエスの御降誕を知らせる光によって、大きな喜びにかわります。教会と共に歩み、神の愛に養われている人々を、クリスマスの光が包み、恵と喜びに生かされるものとなりますように。