礼拝説教12月13日

「今がどんなときであるか知っている」 石丸泰信 牧師
ローマの信徒への手紙 13章11~14節

 アドヴェントはクリスマスに誕生された主イエスを改めて信仰を持って迎え入れようと準備する期節です。そして、再び来られると約束された主イエスの到来を待つ準備の時でもあります。その主の来臨を告げる聖書の言葉の最初に「更に、あなたがたは今がどんな時であるかを知っています」とあります。今がどんな時か。医療が逼迫している時です。あるいは、それぞれの方が経験している時というのもあると思います。大事な仕事が控えている時、試験が控えている時、身体をいたわる時、決断しないといけない時。しかし、今日、聖書がキリスト者に向けて言う「時を知る」、「時を知っている」とは、信仰と関わるものです。信仰とは神への信頼です。本当に時を知るとはキリストを知っている、神を知っている、それにも増して神に自分が知られている。そういう関係の中に入れられて、その中で今の時を生きているということなのだと思います。
 それは、かつて起こった主の降誕の出来事を知っていて、また、終わりの時に来られる主イエスを知っているということ。つまり、今が、その「中間の時」にあって今もキリストとの関係の中で生きているということ、それが「時を知っている」生き方です。こうも言えるかも知れません。今の時が自分の目にどのように映ろうとも、それはまだ途中であるということ。わたしたちは一人ひとりに神の計画が備わっていることを知っています。その計画も、まだ途中なのです。短期の人は自分の目に悪いこと、嫌なことがあるとすぐに、もう駄目だという烙印を押したくなります。けれども、まだ途中なのです。 
  ある人は、今日の聖書の箇所を「第二のクリスマス」が描かれているといいます。第一のクリスマスは主イエスの誕生の礼拝です。クリスマスという言葉は主の誕生を指す言葉ではありません。「クライスト・マス(ミサ)」=「キリスト・礼拝」を意味する言葉です。そういう意味で、第二は主が再び来られる時の礼拝です。第一のクリスマスの際、誰も来ませんでした。やってきたのは天使の告知を聞いて信じた羊飼いと占星術の学者たちだけです。彼らは旧約の預言の言葉を知り、皆が眠っている夜更けに昼間の恰好をして歩いてやってきました。知っていたからです。他の人々は、まさか明日、クリスマスの日が来るとは思っていなかったのです。知らなかったからです。学者たちが預言書を通して知らされていたのと同様に、わたしたちも聖書を通して第二のクリスマスが来ることを知っています。それが「あなたがたは今がどんな時であるかを知っています」という言葉の意味です。第一のクリスマスに始まった神の御業は完成していません。十字架の死、そして復活された主は「必ず、あなたたちの所に帰ってくる」と約束されました。この約束を信じるところから教会の歩は始まりました。だからこそ、主が来られるとき「知りませんでした」と言って欲しくない。「今がどんな時であるか」知る者として今を生きてほしい。それが聖書の願いです。
 パウロは「夜は更け、日は近づいた。だから、闇の行いを脱ぎ捨てて光の武具を身に着けましょう。日中を歩むように、品位をもって歩もうではありませんか。酒宴と酩酊、淫乱と好色、争いとねたみを捨て、主イエス・キリストを身にまといなさい」と言います。「闇の行い」とは「酒宴と酩酊、淫乱と好色、争いとねたみ」です。このどれもが時をわきまえない行いだからです。そして「光の武具」つまり、「主イエス・キリストを身にまといなさい」と言います。どういう意味か。
 今日の箇所の最初に「更に」という言葉が付いています。直前の箇所で言われていたことは隣人愛についてです。それが分かれば、「キリストを身にまとう」ということも分かります。直前では、「互いに愛することのほかは、誰に対しても借りがあってはなりません」と言われていました。誰に対しても負債は返さないといけないもの。しかし、愛だけは別。借りがあってもよいと言うわけです。なぜか。誰かに「愛された」という負債は返しきれないからです。生きているかぎり、たとえ自分が気がついていなかったとしても、周りの人たちから数え切れない程の恩恵を受けています。それはとても返すことの出来ない愛の負債です。そういうことを意識しながら生きることを「恩を着て生きる」というのかもしれません。
 しかし、聖書は、それに勝って「主イエス・キリストを身にまといなさい」と言います。なぜか。神がまず、わたしたちを愛してくださったからです。クリスマスはわたしたちが清く正しいから神が来てくれた出来事ではありません。偽善的で浅ましい罪人であるのに来てくれた出来事です。主は、神の前に滅ぼされて当然の生き方をしているわたしたちを愛し、その滅びの痛みを十字架の上で代わってくださいました。それでわたしたちの「今」があります。9節から列挙されている律法の一つひとつは、これを守れば救われるという救いの条件ではありません。もう赦されていることを知っている者たちの負債の返し方を意味するものです。その律法は人を愛するとき、全うされると言います。つまり、神から受けた愛=負債を返そうとするとき、隣人にそれは向けられる。それで、少し返したことになると言うのです。
 キリストを着て生きるとは、返しきれない愛の負債を負うということです。その負債は周りの人に返していくことが出来ます。そのことを承知している人は、誰かのために自分が何かをしたとしても、それは誇りにはならないと思うと思います。加えて、周りの人の態度がどうであれ、あの人は愛が無いなどと言って大騒ぎすることもなくなるのだと思います。その姿はかつての自分です。愛が不足している人に対しては、かつて自分がそうされたように、自分の愛を渡すだけです。今がどんな時であるか、目を覚まして、服装を整えて、今を過ごしましょう。