礼拝説教12月6日



「切り株から一つの芽が萌えいで」 石丸泰信 牧師
イザヤ書11章1ー10節

 イザヤ書の平和の王の預言の言葉を読みました。その王には主の霊が留まると言われます。「エッサイの株からひとつの芽が萌えいで その根からひとつの若枝が育ち その上に主の霊がとどまる。知恵と識別の霊 思慮と勇気の霊 主を知り、畏れ敬う霊」。その王の支配は「この地」を越え「国々」、自然に及び「水が海を覆っているように、大地は主を知る知識で満たされる」と言われます。「主を知る」とは神が分かるということです。単なる知識としてではなく、ああ神はこういう方なのだ、という風に神の思いがわかるということです。同時に、それはわたしたち自身のこともわかるということです。造り主の思いが分かれば、わたしたちが造られた目的や意味も分かります。今、なぜ、わたしはこうなのか、これまでの歩みの意味、あの経験の意味。平和の王の執り成しと贖いの中で自分の赦された罪がわかります。
 そして、「主を知る」とは「主を畏れ敬う」ようになるということです。わたしたちは畏れるべきものを畏れず、恐れるべきでないものを恐れます。だから不安になり、争いが起きます。しなくてよい心配をし、すべき心配があるということに気がつきません。「主を畏れ敬う霊に満たされる」というのは、畏れるべき方を畏れて、恐れるべきでないものを恐れなくなるということです。その時、世界もわたしたちの心も平和になる。
 この紀元前700年頃のイザヤの預言をキリスト教会は主イエスの誕生に成就を見ました。そして、その王は「エッサイの株から」と言います。エッサイとはダビデ王の父、つまり、ダビデの系図から出る。しかし「株」と言います。切り株のことです。つまり、一度切り倒されなければならないというわけです。イスラエル王国の歴史は事実、一度、切り倒されました。しかし、それでお仕舞いではなく、また、その続きでもない、新しい「ひとつの若枝」が最初の木と同じ道を行かず、異なるものとして育ってゆく。それがクリスマスに生まれるイエス・キリストです。
 同じ血筋だが新しい王。ここに連続性と非連続性があります。そして、このような出来事は世界の大きな歴史に現れるだけでなく、わたしたち一人ひとりの人生の中にも起こります。マリアは天使の受胎告知を受けたとき、「どうして、そのようなことがありえましょうか」と応えました(ルカ福音書1:26-)。この反応は人間として当然の応答です。しかし、同時に天使の告知を否定しています。神の思いや計画よりも自分の理解、論理を優先している応答です。マリアは天使に答えたわけです。「それはわたしの理屈としてはおかしい。どうして、そんなことありえましょうか」。天使は構わず、もう一度告げます。あなたは神の子を産む。すると今度マリアは答えます。「お言葉どおり、この身に成りますように」。マリアは1度目では捨てなかった自分の常識、自分の論理を捨てました。捨てて、神の選びに身を委ねたのです。言い換えれば、マリアがこれまで育ててきた「わたし」という木を切り倒し、切り株になったわけです。そして、そこから「ひとつの若枝」が芽生えてくるという言葉を信じ、待つことにしたのです。
 この出来事がわたしたちの人生にも起こると言えば、大変な出来事と思われるかもしれませんが、洗礼という形で既に体験しているのだと思います。洗礼とは、これまでの生き方に何かを加えるという出来事ではありません。そうではなく、今までの自分を切り倒し、その切り株から、全く新しい出来事が芽吹いてくる出来事です。そんなこと有り得るだろうか。わたしはわたしの常識を信じる、という言葉遣いから、言葉のとおり、この身になりますように、という言葉遣いに変わる出来事です。
 そして、この「その根から、ひとつの若枝が育ち」というイメージは、自分自身の出来事だけではなく、切り倒されたように見える自分の人生、自分の見ている世界をも救うイメージだと思います。旧約の「ヨセフ物語」のアニメーション映画「キング・オブ・ドリーム」には牢屋に入れられたヨセフの場面があります。彼は自分の人生を恨み、神に向かって叫びます。「あなたは、何のために、わたしに力を与えた!牢に入れておくためか!」その時、ヨセフは枯れて捨てられた木に新しい芽が萌えいでているのを発見するのです。枯れ木を見つけても誰も大事にしようとは思いません。ヨセフの人生も同じでした。大事にする意味はない、もう捨てるべき人生でした。しかし、そこに小さな芽を見つけるのです。この芽はヨセフへの神の答えです。一度捨てた人生に新しい芽が萌え出でようとしている。あなたはどうするか。わたしたちは自分の常識、論理で神に、なぜと問いますが、実はいつも神に問われているのです。その人生、あなたはどうするか。