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礼拝説教7月26日

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「サウロの新しい出発」 小松 美樹 伝道師 使徒言行録 9章1-25節 「サウロの回心」と言われる箇所を読みました。「 回心」は心を改めることではなく、これまでの自分の歩みを止めて、神の方に体を向きを変えることです。 この時のサウロの出来事は使徒言行録の中に 3度記されています 。 大きな転換点であり、重要なものとして記されています ( 22:4-16 , 26:9-18 ) 。 私たちが証をするときに、思い起こすことがあるように、サウロにとってはこのことは強烈な出来事でした。  この時、 エルサレムにあった教会は迫害の中にありました。サウロが迫害をしていました。ユダヤ人にとって、新しく出て来たキリスト教会は受け入れられないものでした。 サウロは ローマのキリキア州の首都だった町、タルソス出身の者です。また、「 ガマリエルのもとで先祖の律法について厳しい教育を受け、熱心に神に仕えていた( 22:3 ) 」エルサレムで律法の教育を受け、律法学者のエリートであったと言われています。 サウロは神の律法を忠実に守ることが、神の民であるということであり、神の救いにあずかることだと信じていました。しかし十字架に架けられて処刑されたナザレのイエスが救い主だという者たちが現れ始めました。サウロはそんなことは受け入れられません。律法では「 木に架けられた者は神に呪われた者(申 21 : 23 ) 」でした。十字架で死んだイエスを救い主と信じることで、神の民とされるということは、神の律法に逆らう教えとして、サウロは主イエスを信じる人々を激しく迫害しました。  サウロはダマスコの町に主イエスの弟子がいると聞くと、男女問わず、縛り上げ、連行しに行きます。大祭司からの書状を手にして向かって行きました。しかし、サウロと同行の者がダマスコに近づいた時、突然天からの光に照らされ、彼は地に倒れました。そこで 「サウルサウル、なぜわたしを迫害するのか」 と声を聞きました。その声はサウルが迫害している主イエスでした。光に照らされたサウルは目が見えなくなりました。彼は周りの人に助けられながらダマスコに入ります。そして3日間目が見えず、食べもしませんでした。 手を引かれて、 1 人では何もできなくなったサウロ。それは神の光に照らされ、自分が何者なのかわからなくなったということだと思

礼拝説教7月19日

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「悪の計りごとを神は良いことのための計らいとする」石丸泰信牧師 フィレモンへの手紙8-16節 8節から手紙の本題に入ります。パウロが 「愛に訴えてお願いします」 と言ってフィレモンにオネシモのことを伝える場面です。そもそも、このオネシモがどういう人か。彼はフィレモンの家の奴隷でした。 しかし、何かの不正を行って逃げ出します。その後、パウロの元に行き、そこで福音に触れ、キリスト者となりました。そのオネシモをフィレモンの家に送り返そうとしている場面です。逃亡奴隷を再び迎え入れることは一般的ではありませんでした。多くの場合、殺されもしました。それを承知でパウロは言うわけです。 「キリストの名によって遠慮無く命じても良いのですが、むしろ、愛に訴えてお願いします」 。パウロは、ここで命令ではないことを強調しています。他でも 「頼み」 、 「強いられたかたちではなく、自発的になされるように」 と言います。    しかし、この 「愛に訴えて」 というのは難しいなと思います。もしも、断れば、愛のない人だと思われてしまう。しかし、 「愛に訴えて」 とは「あなたの自由に訴えて」ということなのだと思います。「自由というのは相手に NO と言えること」( 7/12 説教)だと聞きました。確かにそうだと思います。相手にノーと言えない関係に愛はありません。相手の言うことに yes しか言えないのであれば、それは相手を恐れているからです。嫌なことは嫌と言える関係の中で、 yes を選び取って行く。それが愛の関係です。創世記のアダムとエバとの神の約束。「善悪の知識の木の実だけは取って食べてはいけない」。これをヘビは不自由の象徴にしましたが、元々は自由と愛の象徴でした。人は取って食べることもできるし、約束を守ることもできる。神は人を造るとき、神の命じに従う石(モノ、機械)のような関係ではなく、自由な関係の中に生きて欲しいと望み、自由意志を与えました。自由がまずあって人は愛することができるからです。パウロはフィレモンの 「愛に訴えて」 、言い換えれば自由な思いの中で選び取って欲しいと訴えています。  そして、パウロはオネシモが居なくなった事実を別の面から見て指摘します。 「おそらく彼がしばらくあなたのもとから引き離されていたのは、あなたが彼をいつまでも自分のもとに置くためであ

礼拝説教7月12日

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何にも縛られない生き方」小松美樹伝道師 使徒言行録16章16-40節  パウロは今、牢の中にいます。パウロとシラスは占いの霊に取りつかれている女奴隷に出会い、その霊を追い出したことで、牢に入れられました。女奴隷は占いをして、運命や運勢を言い当てていました。この女奴隷の所有者である主人たちは、それにより多くの利益を得ていました。女奴隷は、占いの霊にも、主人たちにも支配され、利用されていたのです。その女の主人たちは金儲けできなくなり、パウロたちを高官たちに訴え、二人は牢に入れられてしまいました。  それは不当な逮捕でした。パウロとシラスは一番奥の牢に入れ、足には木の足枷をはめました。   何度も鞭打たれて二人の体はボロボロだったと思います。けれどもここで不思議な光景が描かれています。このような状況の中にも関わらず、 「真夜中ごろ、パウロとシラスが賛美の歌を歌って神に祈って」 いました。他の囚人たちは、それに聞き入っていました。不当な逮捕であるなら、「相手をこらしめてください」とか、「私の正しさを証明してください。」そんな風に訴えてもおかしくない状況だと思います。けれども、二人は神に賛美を捧げていたのです。真っ暗な牢の中にいても、パウロたちは信頼する神の光を見つめていたのだと思います。それが牢の中にいた人たちにも伝わったのだと思います。  そこへ突然、大きな地震が起こります。牢屋の扉は開き、囚人たちを牢に繋いでいた鎖もすべて外れてしまいました。様子を見に来た看守は、囚人たちが逃げてしまったと思い、自殺しようとします。囚人が脱走した場合、その囚人が受けるべき刑を、逃がした看守が代わりに受けるという規則があり、自分の命で償わなければいけませんでした。自殺をしようとする看守に向かって、パウロの声が響きます。 「自害してはいけない。わたしたちは皆ここにいる。」 牢の中を見ると囚人全員がいました。  パウロの姿は自由でした。歌ったり、祈ったり、声を掛けてあげたり。まるで鎖になんて繋がれていないようです。一方の看守は役人であり、捕らわれているわけでもない自由な市民でありながら、自殺しようとしていました。突然の災害や、自分の失敗によって、人生が左右され、絶望したからです。牢の鍵を持っているのに、鎖に繋がれて、閉じ込められているかのようです。

礼拝説教7月5日

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「信仰の互いの分かち合い」 石丸泰信 牧師 フィレモンへの手紙1-14節 『フィレモンへの手紙』を読みました。この手紙が熱心に読まれることは多くないかもしれません。その理由は、この手紙が個人宛、しかも個人的な内容の手紙という印象が強いからだと思います。しかし、これはやはり、教会宛の手紙です。それは宛名に現れています。 「わたしの愛する協力者フィレモン」 に続き、 「姉妹アフィア、わたしたちの戦友アルキポ、ならびにあなたの家にある教会へ」 。 「姉妹アフィア」 はフィレモンの妻、「アルキポ」はパウロたちと同じ伝道者。牧師の仕事をしていたと考えられています。手紙に書かれている内容は、確かに個人的な依頼かもしれませんが、しかし、それをフィレモンだけでなく、その家族や教会全体として受け止めて欲しいと願って書かれた手紙であることが分かります。 扱われているのはオネシモという人物のことです。彼はフィレモンの家で奴隷として生きていましたが、何かの不正を行って逃げ出します。その後、パウロの元に行き、そこで福音に触れ、キリスト者となる。そのオネシモをフィレモンの家に送り返すので愛をもって受け入れて欲しい、ということです。逃亡奴隷を再び迎え入れることは一般的ではありませんでした。多くの場合、殺されもしました。それを承知でパウロは頼むわけです。フィレモン個人ではなく、教会宛に。 どうでしょうか。このような状況。自分は被害を被っていません。わたしたちであれば、フィレモンの横で何を言うでしょうか。もしかしたら「迎えるか、迎えないかは、あなた次第ですね。あなたの判断に任せます」と言うかもしれません。しかし、すると孤立が始まります。フィレモンだけが悩み、彼だけが眠れない夜を過ごすことになります。パウロは、それをさせたくなかったのだと思います。そして、何より教会を、一つの体として信じていたのだと思います。 聖書は、キリスト者のことをキリストを頭とする大きな一つの体として見ています。こういう言葉があります。「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい」(ローマ12:15)。喜ぶ人と共に喜ぶことは簡単にできるかもしれません。けれども、泣く人と一緒に泣くのは難しい。泣く人の隣で慰める。それはできます。しかし、それを自分のこととして泣くのはなかなかできない。隣の人の悲しみに共感して