礼拝説教7月5日

「信仰の互いの分かち合い」 石丸泰信 牧師
フィレモンへの手紙1-14節


『フィレモンへの手紙』を読みました。この手紙が熱心に読まれることは多くないかもしれません。その理由は、この手紙が個人宛、しかも個人的な内容の手紙という印象が強いからだと思います。しかし、これはやはり、教会宛の手紙です。それは宛名に現れています。「わたしの愛する協力者フィレモン」に続き、「姉妹アフィア、わたしたちの戦友アルキポ、ならびにあなたの家にある教会へ」「姉妹アフィア」はフィレモンの妻、「アルキポ」はパウロたちと同じ伝道者。牧師の仕事をしていたと考えられています。手紙に書かれている内容は、確かに個人的な依頼かもしれませんが、しかし、それをフィレモンだけでなく、その家族や教会全体として受け止めて欲しいと願って書かれた手紙であることが分かります。

扱われているのはオネシモという人物のことです。彼はフィレモンの家で奴隷として生きていましたが、何かの不正を行って逃げ出します。その後、パウロの元に行き、そこで福音に触れ、キリスト者となる。そのオネシモをフィレモンの家に送り返すので愛をもって受け入れて欲しい、ということです。逃亡奴隷を再び迎え入れることは一般的ではありませんでした。多くの場合、殺されもしました。それを承知でパウロは頼むわけです。フィレモン個人ではなく、教会宛に。

どうでしょうか。このような状況。自分は被害を被っていません。わたしたちであれば、フィレモンの横で何を言うでしょうか。もしかしたら「迎えるか、迎えないかは、あなた次第ですね。あなたの判断に任せます」と言うかもしれません。しかし、すると孤立が始まります。フィレモンだけが悩み、彼だけが眠れない夜を過ごすことになります。パウロは、それをさせたくなかったのだと思います。そして、何より教会を、一つの体として信じていたのだと思います。

聖書は、キリスト者のことをキリストを頭とする大きな一つの体として見ています。こういう言葉があります。「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい」(ローマ12:15)。喜ぶ人と共に喜ぶことは簡単にできるかもしれません。けれども、泣く人と一緒に泣くのは難しい。泣く人の隣で慰める。それはできます。しかし、それを自分のこととして泣くのはなかなかできない。隣の人の悲しみに共感して悲しむということはできるかもしれません(悲しみの共有)。しかし、その人の悲しみの根源である苦しみを、自分のものにして自分も苦しみ、結果、泣くというのはなかなかできません(苦しみの共有)。

そう考えているとき、ある友人から「仕事を辞めた。だから、住まわせてもらっていたここも出て行かないといけない」というメッセージをもらいました。それを聞いて、食事に誘おうと思いました。けれども、聖書を読んで思いました。これでは泣く人の傍で励ましているが一緒には泣いていない。それで「一部屋空いているので、一緒に住みますか」と連絡しました。同時に彼と一緒に暮らすのか、何度も後悔するだろうなと感じました。しかし「共に泣く」というのは自分が悩まない、傷まない所に居ては一緒に同じ涙を流すことはできないのだと思います。一緒に住んで些細なことで喧嘩をして流す涙。相手も、こんな家に来るのではなかったと言って流す涙。それは、仕事を辞めたときの涙とは違う涙だと思います。一人流す涙と誰かと一緒に流す涙は同じ涙でも違う涙。質の違う涙です。ヨハネ福音書の伝える最初の奇跡は水が葡萄酒に変わる奇跡でした。水も葡萄酒も同じ液体です。しかし、性質が違います。聖書の記す奇跡は性質を変える奇跡です。そういう奇跡は主イエスだけでなく、共に喜び、共に泣くとき、そこに起こってくるのだと思います。けれども、すぐに返信が来ました。「彼女と住むので大丈夫です」。なんだ、全然悲しくないじゃないかと思ってしまいました。

パウロは言います。「キリストのためになされているすべての善いことを、あなたが知り、あなたの信仰の交わりが活発になるようにと祈っています」。「交わり」と訳されている言葉は「コイノニア」です。この言葉は本当は訳しづらいと言われています。「交わり」とも「分かち合い」とも訳せますが、いずれも十分ではありません。コイノニアの原意は「一つを分ける」という意味だからです。多いから分けるのではありません。一つです。コイノニアの意味は主イエスの姿を見るとよく分かります。苦しむ理由のない方が一つになって一緒に苦しんでくださったからです。この手紙を通して善いことを知って、そういうコイノニアが深まって欲しい、とパウロは願います。フィレモンはあたかも自分がオネシモであるかのような思いでオネシモを迎えて欲しいのです。パウロ自身も、オネシモの負債は自分が負うと言います(18)。理由は書いていません。彼も一つの体だから当然なのです。

今、新型ウイルスのおかげで、自分だけ良ければそれで良いという生き方ができなくなってきました。自分の家、県、国だけ綺麗にしてもウイルスは往来します。他の人、他の国の苦しみはわたしの苦しみという思いが、本当はいつも必要です。しかし、なかなかできない。なぜか。屋根が違うからだと言われます。同じ屋根の下の家族が指を切れば皆が心配します。しかし、隣の家の誰かが熱を出しても気にしません。屋根が違うからです。主イエスはいつもすべての人を同じ屋根の下に住む者として見てくださいました。コイノニアは屋根を一つにします。難しいことですし、誰かに命じられてできることでもありません。自発的にしか行えない。けれども、もし、チャレンジしたとき、その涙の質も喜びの質も変わります。