礼拝説教7月19日

「悪の計りごとを神は良いことのための計らいとする」石丸泰信牧師
フィレモンへの手紙8-16節

8節から手紙の本題に入ります。パウロが「愛に訴えてお願いします」と言ってフィレモンにオネシモのことを伝える場面です。そもそも、このオネシモがどういう人か。彼はフィレモンの家の奴隷でした。しかし、何かの不正を行って逃げ出します。その後、パウロの元に行き、そこで福音に触れ、キリスト者となりました。そのオネシモをフィレモンの家に送り返そうとしている場面です。逃亡奴隷を再び迎え入れることは一般的ではありませんでした。多くの場合、殺されもしました。それを承知でパウロは言うわけです。「キリストの名によって遠慮無く命じても良いのですが、むしろ、愛に訴えてお願いします」。パウロは、ここで命令ではないことを強調しています。他でも「頼み」「強いられたかたちではなく、自発的になされるように」と言います。
 
 しかし、この「愛に訴えて」というのは難しいなと思います。もしも、断れば、愛のない人だと思われてしまう。しかし、「愛に訴えて」とは「あなたの自由に訴えて」ということなのだと思います。「自由というのは相手にNOと言えること」(7/12説教)だと聞きました。確かにそうだと思います。相手にノーと言えない関係に愛はありません。相手の言うことにyesしか言えないのであれば、それは相手を恐れているからです。嫌なことは嫌と言える関係の中で、yesを選び取って行く。それが愛の関係です。創世記のアダムとエバとの神の約束。「善悪の知識の木の実だけは取って食べてはいけない」。これをヘビは不自由の象徴にしましたが、元々は自由と愛の象徴でした。人は取って食べることもできるし、約束を守ることもできる。神は人を造るとき、神の命じに従う石(モノ、機械)のような関係ではなく、自由な関係の中に生きて欲しいと望み、自由意志を与えました。自由がまずあって人は愛することができるからです。パウロはフィレモンの「愛に訴えて」、言い換えれば自由な思いの中で選び取って欲しいと訴えています。
 そして、パウロはオネシモが居なくなった事実を別の面から見て指摘します。「おそらく彼がしばらくあなたのもとから引き離されていたのは、あなたが彼をいつまでも自分のもとに置くためであったかもしれません。その場合、もはや奴隷としてではなく、奴隷以上の者、つまり、愛する兄弟としてです」。奴隷であれば、いつまでも自分のもとに置いてはおけません。奴隷は主人の下で働くと資金を貯め、自分で自分を買い取って自由になることができました。奴隷はいずれ去る存在です。しかし、兄弟は去らない。オネシモが一度去ったのは、主にある、あなたの兄弟となるためであったのではないか。確かに、オネシモはフィレモンの下を去ったからこそ、キリスト者になりました。そして、そうさせたのは誰か。それは神だと言うのです。パウロは「彼が去ったのは」とは言いません。「引き離されていたのは」です。受動態です。オネシモは誰かによって引き離された。聖書は主イエスが復活されたことも、いつも受動態で表現します。そしてそこには言外の「神に」という言葉が隠されています。パウロは、この出来事の中に神が介入されたことを見ているのです。
 オネシモは確かに悪事を働きました。しかし、それを神は良いことのために用いてくださったのではないでしょうか。そうならば、何か新しいことが起こるのではないでしょうか。パウロの言いたいことは、そういうことです。本日の説教題は創世記50章20節のヨセフのセリフから採りました。パウロはヨセフ物語を知っています。そして、今、自分たちも、その中にいる、と。
わたしたちも、この言葉を知っています。「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています」(ロマ8:28)。しかし問題は、このことは自分たちの所では起こらないと思っているところです。しかし、このことを信頼できたとき、景色が違って見えるのではないかと思います。わたしたちは時に自分の人生を諦めます。もう幸せにはなれない・・・。あんなことしなければ良かった、と。けれども、それは本当なのでしょうか。パウロは、それも神は良いことのために用いるというのです。ある学校のスクールモットーに「人になれ」という言葉があります。つまり、神のようになるな、ということです。時に人は全能の神のような気持ちで、もう駄目だ、もう自分の人生には何も起こらないと決めつけて諦めてしまいます。しかし、聖書は「門を叩きなさい」と言います(マタイ7:7)。正確には「叩き続けなさい」です。これは、わたしたちが「もう叩いても無駄だ」。そう言って諦めてしまうからこそ、教えられた言葉です。本当は先のことは分からない。だからこそ、信じて叩き続けるための言葉です。人が蒔いた悪の企ての種から新しい芽が出てくるまで時間が掛かります。ヨセフはじっとそれを待ちました。今度はフィレモンの番、わたしたちの番です。