礼拝説教7月12日

何にも縛られない生き方」小松美樹伝道師
使徒言行録16章16-40節

 パウロは今、牢の中にいます。パウロとシラスは占いの霊に取りつかれている女奴隷に出会い、その霊を追い出したことで、牢に入れられました。女奴隷は占いをして、運命や運勢を言い当てていました。この女奴隷の所有者である主人たちは、それにより多くの利益を得ていました。女奴隷は、占いの霊にも、主人たちにも支配され、利用されていたのです。その女の主人たちは金儲けできなくなり、パウロたちを高官たちに訴え、二人は牢に入れられてしまいました。

 それは不当な逮捕でした。パウロとシラスは一番奥の牢に入れ、足には木の足枷をはめました。 何度も鞭打たれて二人の体はボロボロだったと思います。けれどもここで不思議な光景が描かれています。このような状況の中にも関わらず、「真夜中ごろ、パウロとシラスが賛美の歌を歌って神に祈って」いました。他の囚人たちは、それに聞き入っていました。不当な逮捕であるなら、「相手をこらしめてください」とか、「私の正しさを証明してください。」そんな風に訴えてもおかしくない状況だと思います。けれども、二人は神に賛美を捧げていたのです。真っ暗な牢の中にいても、パウロたちは信頼する神の光を見つめていたのだと思います。それが牢の中にいた人たちにも伝わったのだと思います。

 そこへ突然、大きな地震が起こります。牢屋の扉は開き、囚人たちを牢に繋いでいた鎖もすべて外れてしまいました。様子を見に来た看守は、囚人たちが逃げてしまったと思い、自殺しようとします。囚人が脱走した場合、その囚人が受けるべき刑を、逃がした看守が代わりに受けるという規則があり、自分の命で償わなければいけませんでした。自殺をしようとする看守に向かって、パウロの声が響きます。「自害してはいけない。わたしたちは皆ここにいる。」牢の中を見ると囚人全員がいました。

 パウロの姿は自由でした。歌ったり、祈ったり、声を掛けてあげたり。まるで鎖になんて繋がれていないようです。一方の看守は役人であり、捕らわれているわけでもない自由な市民でありながら、自殺しようとしていました。突然の災害や、自分の失敗によって、人生が左右され、絶望したからです。牢の鍵を持っているのに、鎖に繋がれて、閉じ込められているかのようです。

 パウロが自由なのは本当に大切なことを見つめていたからです。自由とは「選ぶことができる」ことだと思います。「捨てること」「殺すことができる」ものだと言う人もいます。「殺す」とは、その存在を受け入れず、ノーということです。

 私たちは人や小動物と一緒に暮らすことができます。けれど相手が熊だったら話は別です。命を脅かし、服従しなければならない存在とは、共に暮らせません。「ノー」と断れない関係になると、鎖に繋がれ、奴隷となるのだと思います。また多くの人は人の目、人の評価を気にすると思います。良い子、良い親、良い夫、良い妻、良い社員。そうして評判という鎖に繋がれます。鎖に自分の命が握られてしまっているのです。

 高官たちは人々の評価の奴隷でした。女奴隷の主人たちは金儲けの鎖に繋がれていました。けれども、それぞれを取り巻く様々な状況のなかで、喜んで選びとる生き方をしているのがパウロの自由な姿なのだと思います。

 主イエスは私たちのために、ご自分の命を与え、最も小さくなり、仕えてくださる主人です。私たちを守るために、全てを背負ってくださった方です。この方はご自身の利益を求めず、愛による支配をするお方です。私たちは、「この支配なら」と選ぶことができます。権力や力でねじ伏せられることがありません。お断りだと言って無視して捨てることもできます。そうして私たちは仕事で疲れていても、日曜の朝に教会に来ます。体に痛みがあっても、礼拝に来ます。神を第一とする生活は、自由の証しとなるでしょう。

 何も恐れない自由なパウロの姿を見て「救われるためにはどうすべきでしょうか」と看守は問いました。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます」とパウロは言います。家族の中に、本当に大切なことをいつも見失わず、信頼している人が一人でもいたら、そこには光があります。主イエスという光を見つめて信頼して生きる家族がいることで、その家はきっと、暗闇のような状況になっても、信仰者が灯す、光を共に見つめて歩めるのだと思います。