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礼拝説教6月28日

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「神からの恵みと平和があなたがたにあるように」 石丸泰信牧師 フィレモンへの手紙1-25節 フィレモンへの手紙を読みました。今この時期に必要な手紙ですし、今一度、教会の年度聖句「御言葉を行う人になりなさい」を思い起こすのに良いのではないかと感じています。「御言葉を行う人になりなさい」(ヤコブ 1:22 )の言葉の本質は、御言葉を行うこと自体ではありません。行うことは結果です。大切なのは御言葉を一心に見つめ、守る(他の訳:離れず、留まる、など)ことだと聖書は続けます(ヤコブ 1:25 )。御言葉を一心に見つめ、聞く場所は、まず、教会の礼拝です。そして、その言葉に留まれと言われている場所は、わたしたちの生活の場所です。 今日、心に留めたい言葉は3節の 「わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように」 です。ただの典型的な挨拶に聞こえます。しかし、ここに無くてはならない祝福を求める祈りであると思います。この手紙にはフィレモン、オネシモ、パウロ、三者三様、与えられた試練に対するチャレンジが書かれています。それを乗り越えるためには、神からの恵みを恵みとして受け取り、神の平和の中に身を置いている者でないと難しい。だからこそ 「神とキリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように」 という言葉で始めたのです。 パウロは、この手紙をおそらくエフェソの町の牢獄の中で書いています。その内容は「オネシモ」という人物を巡って、信仰者であるフィレモンが、この人をどのように扱い、接していくかということが書かれています。オネシモは、かつてフィレモンの家で奴隷として仕えていました。しかし、何らかの不正を行って逃亡します。その後、オネシモは牢獄にいるパウロを訪ねます。そこで福音に触れ、キリスト者となり、今や、パウロにとって掛け替えのない人物となったのです。そのように新しく生まれ変わったオネシモを、フィレモンの家に送り返そうするに当たり、パウロは、主人としてのフィレモンの立場を尊重しつつ、しかし、オネシモを一人の信仰者として扱って欲しい、と彼の処遇について依頼をしているわけです。 逃亡奴隷を送り返すことは、一般的なことではありませんでした。奴隷は主人の所有物です。逃亡したとなれば、多くの場合、殺されもしました。パウロ

礼拝説教6月21日

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「主が見せてくださる希望」小松美樹伝道師 申命記34章1-7節、使徒言行録1章6-11節  先週から再び教会に集められ、礼拝を捧げること、会えることに喜びを感じました。休止中には手紙や電話でのやりとり、またオンラインで顔を合わせることがありました。その一時は大切な時間でした。けれども、やはり教会に集まれる喜びは大きなものです。同時に、元のようにはできない思いがあります。祈祷会をしたり、讃美歌を歌いたい。信仰告白を礼拝の中ではっきり言い表したい。そんな思いをお持ちかもしれません。賛美の仕方は様々です。 これまでも人によっては賛美の思いを持って、声には出さずに心の中で言葉を合わせている方がいます。私が以前出席していた教会では手話で賛美をしている方もいました。 今は礼拝を続けるために形式を変えています。 賛美も形を変えて、よりその言葉に思いを傾けて主を賛美する、良い時であると思います。 礼拝の形は1つではなく、今後も変わってゆくものであると思います。  私は礼拝休止中に、こうした礼拝の変化や、教会に集まることの意味を確かめるように、使徒言行録に記された最初期の教会を思い起こすことが多くありました。使徒言行録1章と申命記34章の2つの場面を読みました。1つ目は、イースターでご復活なさった主イエスが、天へと上げられる場面です。使徒たちは主イエスが天へと上げられて見えなくなったのを目の当たりにしました。今まで共に過ごし、従ってきた主がいなくなり不安になると思います。けれども主は消えて無くなったのではなく、神の右に座すために、天に上げられました。また 「白い服を着た二人の人」 、つまり天使が 「同じ有様で、またおいでになる」 と再び主が来られるという約束を告げています。   2つ目は イスラエルの指導者モーセの最後が描かれています。 モーセはエジプトで奴隷となっている主の民を導き出しました。 40年もの間、神が民に与えてくださると約束された地へと導いてきました。 けれども、モーセは約束の地に入ることなく死にました。モーセの生涯の終わりの、寂しさを覚える場面です。けれども主は、モーセに山頂から約束の地を見渡せるようにされ、将来を自分の目で見るようにしてくださいました。モーセは 「主の恵みを受けて、目はかすまず、活力も失せていなかった。」 。けれども「土地

礼拝説教6月14日

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「イースターに響く声」石丸泰信 マタイによる福音書28章1-10節 「見よ、兄弟が共に座っている。何という恵み、何という喜び」という詩を交読しました。本当にそうだと思います。ただ一緒に座っているということ、そこに如何に大きな喜びがあるか。詩を歌ったダビデとわたしたちとでは時代も状況も通ってきた大変さも違いますが、同じ喜びの中に今います。イースター、おめでとうございます。とうとう礼拝を再開することができました。長かったですね。きっと聖書に登場する弟子たち、婦人たちも同じです。十字架で死なれた主イエスとの再会までの3日間、とてつもなく長く感じたと思います。わたしたちの礼拝休止の2ヶ月間、皆さん、おそらく、この弟子たちと同じ思いで過ごされたのではないかと思います。どう過ごされたでしょうか。  わたしにとって、主の日ごとに毎週手紙を送るというのは初めての経験でした。不安もありましたが、しかし、よかったという思いです。何度も、「教会からの手紙に励まされています」という便りを頂きましたが、その言葉に励まされて過ごしました。  ここに 「あなたがたよりも先にガリラヤに行かれる」 という言い方が2回出てきます。どうして突然、 「ガリラヤ」 のことが言われるか。彼らは故郷であるガリラヤに帰ろうとしていたからです。主イエスが死んでしまって、もう会えなくなってしまった。だから、もう元の生活に戻ろうとしていたのです。この弟子たちの心変わりについて、以前は共感できませんでした。しかし、今はよく分かります。おそらく彼らは、どうしたら良いか、分からなかったのです。  日曜日、誰もいない会堂で一人過ごす朝、わたしも、どうしたら良いか分からないような気持ちになりました。何かしていれば、あるいは誰かといれば、気が紛れます。でも、だからこそ、何もしないで向き合わなければいけない。きっと、扉を閉じて帰る場所があるなら帰っていたかもしれない。けれども、度ごとに、いろいろな形で便りを頂きました。それらを通して、同じように今を過ごしている兄弟・姉妹がいることを知り、力をもらいました。そして、何よりの支えは再開する今日が来ることです。そして、その日に、この聖書の箇所を読むと言うことでした。 復活の主イエスの最初の言葉は 「おはよう」 でした(口語訳聖書では「平安あれ」)。 「おはよ

礼拝・再開のお知らせ

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礼拝の再開のお知らせ 礼拝を再開します。 6月14日 イースター礼拝 「墓から響く声」 石丸泰信牧師  マタイによる福音書28章1-10節   どなたでもどうぞ。同時に新型ウイルス対策への協力をお願いします。  YouTube 「向河原教会」にて礼拝中継も行います。    

6月7日 向河原教会の信徒への手紙⑨

6月7日 向河原教会の信徒への手紙⑨ 神の御心によってキリスト・イエスのものとされた牧師・石丸から向河原教会にいる聖なる者たち、キリストに結ばれている忠実な兄弟・姉妹たちへ。わたしたちの父である神からの恵みと平和が、あなたがたにあるように。 この手紙が最後の手紙となることを願いながら書いています。6月14日の礼拝再開。つい、先週までは、当然可能だと思っていました。けれども、近々の状況を見ると、どうしたものかな、と心配が募ります。この日に再開して良いのか。もう少し延期すべきか・・・。他の教会はどうするのだろう、どうしたら上手く再開できるだろう、とオロオロする毎日でした。 そんな折、お子さんの入園式の日を迎えられた方からの言葉に励まされました。4月の入園式が新型ウイルスの影響で、延期、未定になり、ようやく、この日を迎えることができた日の言葉です。 「東京アラートも出るみたいでまだまだ先が見えなくて不安ですが、それでもとにかく今日は入園式を迎えられて嬉しかったです。お手紙にあった、神さまはわたしが思っている以上の道を用意してくださっているって。あ、そうかも!とわかった気がしました。うまく言えませんが、そんな気持ちになりました。」 この言葉をもらったときに、もう考えあぐねるのはやめようと思いました。そして、どうなったとしても、まあ、いいかと思いました。悩んで苦しかったのは、自分の願いをどうにか押し通そうとばかり考えていたからだと気がつきました。 「お手紙にあった、神さまはわたしが思っている以上の道を用意してくださっている」というのは、この方の言うとおり、わたしが皆さまへの手紙に書いた言葉です。自分の書いた言葉を人づてに改めて聞いて、励まされるというのは、なんとも不思議な話ですが、事実、そうでした。 この時、何年も前の「証し集」(夏の祈祷会を「証し会」として、数名の方に、神によって導かれたこれまでの歩みの中で与えられた、イエス・キリストとの出会いを分かち合ってもらった証言集)の巻頭言の言葉を思い出しました。これも自分自身で書いた言葉ですが・・・、そのまま転記します。 「証しは、神の御業を誉め讃える言葉であり、また、神の救いの御業の証言です。そして、証し者は福音・良きおとずれを運ぶ者たちです。 D・ボンヘ