礼拝説教6月21日

「主が見せてくださる希望」小松美樹伝道師
申命記34章1-7節、使徒言行録1章6-11節

 先週から再び教会に集められ、礼拝を捧げること、会えることに喜びを感じました。休止中には手紙や電話でのやりとり、またオンラインで顔を合わせることがありました。その一時は大切な時間でした。けれども、やはり教会に集まれる喜びは大きなものです。同時に、元のようにはできない思いがあります。祈祷会をしたり、讃美歌を歌いたい。信仰告白を礼拝の中ではっきり言い表したい。そんな思いをお持ちかもしれません。賛美の仕方は様々です。これまでも人によっては賛美の思いを持って、声には出さずに心の中で言葉を合わせている方がいます。私が以前出席していた教会では手話で賛美をしている方もいました。今は礼拝を続けるために形式を変えています。賛美も形を変えて、よりその言葉に思いを傾けて主を賛美する、良い時であると思います。礼拝の形は1つではなく、今後も変わってゆくものであると思います。

 私は礼拝休止中に、こうした礼拝の変化や、教会に集まることの意味を確かめるように、使徒言行録に記された最初期の教会を思い起こすことが多くありました。使徒言行録1章と申命記34章の2つの場面を読みました。1つ目は、イースターでご復活なさった主イエスが、天へと上げられる場面です。使徒たちは主イエスが天へと上げられて見えなくなったのを目の当たりにしました。今まで共に過ごし、従ってきた主がいなくなり不安になると思います。けれども主は消えて無くなったのではなく、神の右に座すために、天に上げられました。また「白い服を着た二人の人」、つまり天使が「同じ有様で、またおいでになる」と再び主が来られるという約束を告げています。 

 2つ目はイスラエルの指導者モーセの最後が描かれています。モーセはエジプトで奴隷となっている主の民を導き出しました。40年もの間、神が民に与えてくださると約束された地へと導いてきました。けれども、モーセは約束の地に入ることなく死にました。モーセの生涯の終わりの、寂しさを覚える場面です。けれども主は、モーセに山頂から約束の地を見渡せるようにされ、将来を自分の目で見るようにしてくださいました。モーセは「主の恵みを受けて、目はかすまず、活力も失せていなかった。」。けれども「土地」だけではなく、主が見せてくださらなければ、決して見ることのできない、将来の希望をモーセに見せてくれたのです。心が塞ぎ込んでいては決して見ることのできない将来です。

 使徒言行録で主イエスはこう言います。「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となるそのようにして今、その証人は世界中の教会にいます。そして教会は、イエス・キリストが天に上げられて雲に覆われた時のように、主イエスが再び来てくださる終わりの時の約束に向かって歩みを続けています。

 私たちは先のことはわかりませんが、確かに望み見る将来があります。神のご計画に信頼するということは、今までの歩みは決して無駄ではなくて、この道には続きがあること、受け継がれてゆく道があると信じて歩むことです。

 コロナウィルスに気をつけながらの生活はいつまで続くのでしょうか。コロナの影響で人々を不安や緊張感が覆っています。そのことについ目が向いてしまいますが、その中で起きている事は、これまで人が抱えてきた問題が浮き彫りになっているのだと思います。大きく言えば、戦争、飢餓、貧困、差別、そうしたものがコロナにより不安が増す社会で現れ出てきています。そうした環境で圧迫を受けた心への影響はまだこれから現れるだろうと思われます。日々の行いに目をつむってしまわないで「わたしに神が求めておられること」を生活の中で見出して主が見せてくださる将来に目を向けましょう。

 使徒たちは主イエスに「主よ、イスラエルのために国を建て直してくださるのは、この時ですか」と再建を尋ねます。変わりたくない、変化を求めない、戻りたいと願う心に「聖霊が降ると、力を受ける」時が来ると主は言います。私たちは力を受けて、全世界の証人になります。世界から見たら小さな日本の向河原は「地の果て」かもしれません。そこに立つ教会に集う私たちにできることほんの小さなことかもしれません。けれども証人としてこの1週間歩みましょう。そして、思うようにできなかった悔しさ、苛立ちを抱えつつ、礼拝に戻ってまいりましょう。