礼拝説教6月14日

「イースターに響く声」石丸泰信
マタイによる福音書28章1-10節

「見よ、兄弟が共に座っている。何という恵み、何という喜び」という詩を交読しました。本当にそうだと思います。ただ一緒に座っているということ、そこに如何に大きな喜びがあるか。詩を歌ったダビデとわたしたちとでは時代も状況も通ってきた大変さも違いますが、同じ喜びの中に今います。イースター、おめでとうございます。とうとう礼拝を再開することができました。長かったですね。きっと聖書に登場する弟子たち、婦人たちも同じです。十字架で死なれた主イエスとの再会までの3日間、とてつもなく長く感じたと思います。わたしたちの礼拝休止の2ヶ月間、皆さん、おそらく、この弟子たちと同じ思いで過ごされたのではないかと思います。どう過ごされたでしょうか。

 わたしにとって、主の日ごとに毎週手紙を送るというのは初めての経験でした。不安もありましたが、しかし、よかったという思いです。何度も、「教会からの手紙に励まされています」という便りを頂きましたが、その言葉に励まされて過ごしました。

 ここに「あなたがたよりも先にガリラヤに行かれる」という言い方が2回出てきます。どうして突然、「ガリラヤ」のことが言われるか。彼らは故郷であるガリラヤに帰ろうとしていたからです。主イエスが死んでしまって、もう会えなくなってしまった。だから、もう元の生活に戻ろうとしていたのです。この弟子たちの心変わりについて、以前は共感できませんでした。しかし、今はよく分かります。おそらく彼らは、どうしたら良いか、分からなかったのです。

 日曜日、誰もいない会堂で一人過ごす朝、わたしも、どうしたら良いか分からないような気持ちになりました。何かしていれば、あるいは誰かといれば、気が紛れます。でも、だからこそ、何もしないで向き合わなければいけない。きっと、扉を閉じて帰る場所があるなら帰っていたかもしれない。けれども、度ごとに、いろいろな形で便りを頂きました。それらを通して、同じように今を過ごしている兄弟・姉妹がいることを知り、力をもらいました。そして、何よりの支えは再開する今日が来ることです。そして、その日に、この聖書の箇所を読むと言うことでした。

復活の主イエスの最初の言葉は「おはよう」でした(口語訳聖書では「平安あれ」)。「おはよう」だなんて、いつもの挨拶です。でも、同時に、いつもに戻ったねというメッセージがここにはあるのだと思います。いつもの朝、それが簡単に崩れて行ってしまうことは誰もが知っていると思います。しかし、それに耐えられるかどうかは別です。5月の最後に葬儀がありました。その合間、亡くなった方の奥様は、こう言われました。「結局、フィリピ書の通りですね」。どういうことか聞くと、「主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい。・・・思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。そうすれば、神の平和があなたのこころと考えとを守るでしょう」という言葉を伝えたかったようです。そして、今までもそうであったし、これからも同じだと言われました。昨日まで当たり前のように「おはよう」と言っていたのに、突然、それができなくなり、それがずっと続く。それなのに、どうして「主において喜びなさい」という言葉にアーメンと言えるのか。この主イエスの「おはよう」と同じように、家族の「おはよう」という声を聞く日が来るからです。おはよう、やあ、いつもに戻ったね、と。

 もちろん、いつも通りが崩れるのは葬儀だけではありません。夜に家族と喧嘩をした翌朝、相手が黙ったままであれば、喧嘩継続中の合図です。まだ赦していない。けれども「おはよう」という声がその家に響くならば、それは「もう、いいよ」の合図です。復活の主の第二の言葉は「恐れることはない」でした。主と出会った婦人たちが恐れていたからこその言葉だと思います。十字架の前で何もできなかった自分、逃げて行く弟子たちを引き留めることをしなかった自分。復活を信じられなかった自分。いざ対面したとき、自分の罪の意識が吹き出してきて恐ろしくなったのだと思います。けれども、彼女たちは聞くのです。「おはよう」。これは、さあ、一緒に行こうというメッセージです。

 ある人は「愛はぞうきん」だと言います。雑巾はあまり綺麗なものではありません。しかし、その雑巾の汚れは、基本的に、わたしの代わりに汚れた汚れ。わたしの手を守るために痛み、傷ついた汚れです。聖書は言います。彼が刺し貫かれたのは わたしたちの背きのためであり 彼が打ち砕かれたの わたしたちの咎のためであった。・・・彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた(イザヤ535本当は、わたしが汚れなければいけなかったのに、わたしの代わりに汚れてしまった人がいる。わたしたしが赦され、綺麗になればなるほど、主イエスの方は汚れていきます。しかし、その方が「おはよう」、「さあ、一緒に行こう」。「さあ、いつものあなたに戻ったね」。そう言ってくださる。「おはよう」の声が響いた朝、礼拝が始まりました。そして、その声を聞くために、主は、なんども招いてくださいます。