6月7日 向河原教会の信徒への手紙⑨

6月7日 向河原教会の信徒への手紙⑨


神の御心によってキリスト・イエスのものとされた牧師・石丸から向河原教会にいる聖なる者たち、キリストに結ばれている忠実な兄弟・姉妹たちへ。わたしたちの父である神からの恵みと平和が、あなたがたにあるように。


この手紙が最後の手紙となることを願いながら書いています。6月14日の礼拝再開。つい、先週までは、当然可能だと思っていました。けれども、近々の状況を見ると、どうしたものかな、と心配が募ります。この日に再開して良いのか。もう少し延期すべきか・・・。他の教会はどうするのだろう、どうしたら上手く再開できるだろう、とオロオロする毎日でした。

そんな折、お子さんの入園式の日を迎えられた方からの言葉に励まされました。4月の入園式が新型ウイルスの影響で、延期、未定になり、ようやく、この日を迎えることができた日の言葉です。

「東京アラートも出るみたいでまだまだ先が見えなくて不安ですが、それでもとにかく今日は入園式を迎えられて嬉しかったです。お手紙にあった、神さまはわたしが思っている以上の道を用意してくださっているって。あ、そうかも!とわかった気がしました。うまく言えませんが、そんな気持ちになりました。」
この言葉をもらったときに、もう考えあぐねるのはやめようと思いました。そして、どうなったとしても、まあ、いいかと思いました。悩んで苦しかったのは、自分の願いをどうにか押し通そうとばかり考えていたからだと気がつきました。

「お手紙にあった、神さまはわたしが思っている以上の道を用意してくださっている」というのは、この方の言うとおり、わたしが皆さまへの手紙に書いた言葉です。自分の書いた言葉を人づてに改めて聞いて、励まされるというのは、なんとも不思議な話ですが、事実、そうでした。

この時、何年も前の「証し集」(夏の祈祷会を「証し会」として、数名の方に、神によって導かれたこれまでの歩みの中で与えられた、イエス・キリストとの出会いを分かち合ってもらった証言集)の巻頭言の言葉を思い出しました。これも自分自身で書いた言葉ですが・・・、そのまま転記します。

「証しは、神の御業を誉め讃える言葉であり、また、神の救いの御業の証言です。そして、証し者は福音・良きおとずれを運ぶ者たちです。

D・ボンヘッファーは、私たち信仰者というのは、自分に御言葉を語ってくれる他の人を必要とすると言います。自分自身では、自分を救うことが出来ないからです。自分の心の中に描くキリストは、いかに弱いものかと思います。自分の不確かさの中に、自信のなさの中に、いつも消え失せていってしまいます。しかし、自分の中に持つ不確かな信仰が、他の人の口から伝えられる神の言葉によって、確かなものへとされてゆきます。そのために神は、あなたに訪れた神の御業が、人々の間に語り伝えられるようにと、私たちの口に、その生ける言葉を入れられました。神は人を生かす言葉を、兄弟姉妹の証しを通して語られること、また、求めることを望まれたのです。しかし、誰もが、いつも、そのキリスト者の交わりの中に置かれて生きていられるのではないのです。証し会も、この証し集も、その御心に仕えようとするものです。」(『コイノニア別冊「証し集2013」』)
ちょっと分かりづらいかもしれません。D・ボンフェッファーの元の文章は、このようなものです。
「神は、それがさらに人びとの間に語り伝えられるようにと、この言葉を人間の口に入れた。ひとりが御言葉に打たれると、その人はそれをほかの人に語る。神は、わたしたちがその生ける言葉を、兄弟の証しを通し、人間の口を通して、求めまた見出すことを望まれた。だから、キリスト者は、彼に御言葉を語ってくれる〔ほかの〕キリスト者を必要とする。彼は、心が不確かで気落ちしている時には、いつもほかのキリスト者を必要としている。というのは、彼は自分では自分を助けることができない・・・からである。・・・彼はただイエス・キリストのために〔ほかの〕兄弟を必要とする。自分の心の中のキリストは、兄弟の言葉におけるキリストよりも弱いのである。前者は不確かで有り、後者は確かである。」(D・ボンフェッファー著『共に生きる生活』p.15)

「心が不確かで気落ちしている時には、いつもほかのキリスト者を必要としている」。その通りだと思います。そして、だからこそ、神は、必要な言葉をほかの人の口に入れてくださる。こんな大切なことをすっかり忘れていた、この時のわたしにとって、「お手紙にあった、神さまはわたしが思っている以上の道を用意してくださっているって。あ、そうかも!とわかった気がしました」という言葉のプレゼントは、文字通り、わたしが思ってもいなかった出来事でした。

そうであれば、たとえ、自分の願い通りにならないように見えても信頼しようと思いました。とてもすっきりした気持ちになりました。

礼拝の再開をするにあたって、礼拝の責任は役員会(小会)にあります。そもそもわたしが一人、考えあぐねたところで意味のないことなのです。この役員会(小会)を6月7日の午後に開きます。そこで最終決定が為されます。6月14日に再開できるか否かの決定です。それなので、この手紙が最後になることを願いつつと言いましたが、少なくとも、来週中に再開か、再延期かのハガキを出さなければいけないことになりました。
 仮に再開できたら、大いに感謝し、喜びましょう。けれども、仮に再延期になったとしても、気を落としてしまうのはやめましょう。

なぜなら、前述したD・ボンフェッファーは、こうも言うからです。

「キリスト者にとって、彼がほかのキリスト者との交わりの中で生きることを許されているということは、決して自明なことではない。・・・一つの信仰共同体が、この世において、神の言葉と礼典にあずかるために、目に見える形で集まることを許されるということは、神の恵みである。・・・キリスト者の兄弟の交わりは、いつでもわたしたちから取り去られることになるかもしれない神の国の恵みの賜物であり、ただしばらくの間与えられて、また深い孤独によって切り離されてしまうかもしれないということが、容易に忘れられてしまう。だから、その時まで、ほかのキリスト者と、キリスト者の交わりの生活をすごすことが許された者は、心の底から神の恵みをほめたたえ・・・わたしたちが今日なお、キリスト者の兄弟との交わりの生活が許されているのは、恵みであり、恵み以外の何ものでもないことを知りなさい。」(『共に生きる生活』p.9-12)

これまで教会に集って礼拝をし続けて来られた時があったのは神の恵みです。そして、礼拝の再開もまた、神の恵みです。わたしたちがうまくやれば、あるいは状況が整えられれば、できるというものではありません。だから、仮に再延期でも悲観的になることはやめましょう。再開の時には、恵みに感謝し、ただただ喜びましょう。

先行きが見えないとわたしたちは不安になりますが、見送った飛行機が見えなくなっても、消えたわけではないのと同じように、先が見えなくても、神の御手が短いわけではありません。神の思いが見えなく感じるときも、神の御旨が行われていないわけではありません。ただ、わたしたちの目に見えないだけなのです。

わたしの思いは、あなたたちの思いと異なり わたしの道はあなたたちの道と異なると 主は言われる。

天が地を高く超えているように わたしの道は、あなたたちの道を わたしの思いは あなたたちの思いを、高く超えている。(イザヤ書55:8-9)

と言われる主を信頼しましょう。信頼しつつ、次回のハガキにグット・ニュースを書けることを願っています。

さて、礼拝休止の間に、会堂はずいぶん綺麗になりました。床の張り替えを終え、床下の掃除(清掃→乾燥→消毒→乾燥→消臭)も全面終わらせることができました。昨年秋の台風の湿気をたくさん吸ったエアコンも、今週、綺麗になりました。懸念されていたエレベータ下の清掃も、業者の協力を得、事故や怪我なく終えることができました。そしていよいよ、エレベータの修理が行われます。予定日は6月22日(月)です。それなので仮に、次週、礼拝再開ができた場合、頑張って階段を上らないといけませんが、もう2度と無い経験だと思って頑張りましょう。わたしたちが再開を待つのと同様に、綺麗な会堂も再会を待っています。

牧 師 石丸泰信
伝道師 小松美樹