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10月, 2023の投稿を表示しています

2023年10月29日主日礼拝
「キリストがわたしの内に」小松 美樹 牧師
ガラテヤの信徒の手紙 2章15~21節

【説教録画は <Youtube>】

2023年10月22日主日礼拝
「伝道開始の苦悩と喜び」小松 美樹 牧師
コリントの信徒への手紙Ⅱ 12章7b~10節

【説教録画は <Youtube>】  向河原教会の、伝道開始から72年の時を迎えました。1951年10月24日に、向河原教会は、この地に伝道を始めました。「なんとかしてキリストの教えをこの子どもたちの心に刻み込みたい」との祈りによって、武藤富男師により聖書研究会が始められました。1957年に教会が設立され、最初は保育園や工場、河原でも礼拝を捧げました。1959年に土地を取得し、会堂建築を計画します。向河原教会は1951年のラクーア牧師による音楽伝道と、武藤富男師の力添えにより動き出しました。  終戦を迎え、武藤富雄先生が設立した日米会話学院の講師の一人がラクーア牧師でした。音楽伝道は、ラクーア牧師の貯蓄を使い、大きなトレーラーで生活をし、そこに楽器を積み、各地を回りました。苦労の絶えない伝道活動であることは容易に想像つきます。けれども、苦労の中にも、活き活きとした喜びに満ちた顔が浮かびます。    「わたしの身に一つのとげが与えられました」 。使徒パウロがコリントの教会の人達へ書いた手紙の一節です。自分の弱さを告白しています。彼はその自分の弱さを 「一つのとげ」 と表現しています。彼は何らかの難しい病気にかかっていたようです。しかし、彼はこの病を、 「思い上がらないように…サタンから送られた使い」 と言います。この言葉にはパウロの信仰が力強く告白されていると思います。多くの人は、「なぜ自分がこんな目に遭うのか」と、神に対して、恨みや呪いの言葉が出てきてもおかしくないでしょう。しかし、パウロはここで、自分の傲慢さ、自分の罪といったものに目を注ぎ、「思い上がらないように」自分に与えられた試練であると告白しています。 直前の箇所の「自分自身については、弱さ以外には誇るつもりはありません」(12:5)。多くの人は、自分の弱さは隠して、人から評価されるものを表に出して誇ると思います。しかしパウロは、キリストに仕える者としての自分を誇っていて、その内容は、艱難苦難、飢えや迫害、日々のやっかい事や心配事でした。キリストを信じて従っているのに、踏んだり蹴ったりの連続です。「誇り」について、「わたしの身に一つのとげが与えられました。それは、思い上がらないように、わたしを痛めつけるために、サタンから送られた使いです」と言います。「とげ」は、パウロを苦しめていた病気だったでしょう。

2023年10月15日主日礼拝
「宝の入った土の器」小松 美樹 牧師
コリントの信徒への手紙Ⅱ 4章7~15節

【説教録画は <Youtube>】   「わたしたちは、四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない。」 有名な御言葉です。キリスト者にとって、ことあるごとに思い起こす聖書の言葉ではないでしょうか。パウロは、はっきりと苦難はあるということを語ります。神様を信じると、苦労がなくなるとか、生活が楽になるとか、信仰があれば、物事はうまく運ぶようになるとか、そういうことは言われていないのです。四方から苦しめられることはある。途方に暮れることもある。虐げられること、打ち倒されてしまうようなこともあるのです。しかし、それらによって、滅ぼされません。倒されて、膝をつくことがあっても、必ず立ち上がることができる、立ち上がらせて頂くことができます。立たせていただくのです。   信仰とは、精神力や何度でも立ち上がるための力を養うことではありません。私たちが教会に行こうと思うきや、信仰を得たいと思うとき、「信仰があったらしっかり立てるだろう」ということを期待しているかもしれません。けれども、信仰というのは、しっかり立つと同時に、信じればこそ、膝を折ることができるということを忘れてはならないのです。信じるのもがあるからこそ、崩れることだってできるということです。  伝道者となる夫婦の結婚式の時に、先輩の牧師が「夫婦喧嘩は負けておけ」と言いました。家族の中での論争、親子間でのやり取りのなかでも、相手と対立しそうになる時は、負けなさい、と言うのです。家族を打ち負かしたところで、それは何にもならないということです。主イエスが黙って十字架に向かって行った歩みは、正しさを証明しない事。飲み込むことでした。私たちが、全てを口に出さずに飲み込みなさいということではありませんが、人を守るために責めないということをしたいものです。だから、信仰があるということは、自分を守る思いを捨てられるのだと思います。そして主がしてくださったことを思い、私たちのためにすでに差し伸べられている憐みの主の御手があることを知っているからこそ、自分も膝を折り、地に這うことだってできるのです。    「ところで、わたしたちは、このような宝を土の器に納めています。この並外れて偉大な力が神のものであって、わたしたちから出たものでないことが明らかになるために」 。こ

2023年10月8日主日礼拝
「いつまでも残るは信仰、希望、愛」石丸 泰信 先生
コリントの信徒への手紙Ⅰ 13章1~13節

【説教録画は <Youtube>】   「信仰と希望と愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である」 。皆さんは自分の人生における徳目を持っているでしょうか。「信仰、希望、愛」はキリスト教の3つの徳目です。度ごとに思いだして大切にするべき3つです。コリントの教会の人々には良い賜物が与えられていたようです。けれども、それで問題も起きていた。そこでパウロは、その賜物をどう用いるかを伝えるためにこの手紙を書きました。   「愛がなければ、わたしは騒がしいどら、やかましいシンバル」 と言います。愛を失った言葉では誰も耳を傾けないとパウロは言うのです。では、どうすれば良いのか。愛は行為そのものでは無いのです。 「全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも」 、 「わが身を死に引き渡そうとも」 という言葉があります。これらの行為は愛そのものに見えます。けれども 「愛がなければ、わたしに何の益もない」 という言葉が続くのです。愛がなければ「=ゼロ」。パウロがここで言いたいのは「愛無き愛」のことです。一見、愛の行為に見える。けれども、そこに愛がない。  『愛を伝える5つの方法』(ゲーリー・チャップマン著)という本があります。英語を話す人に英語で伝えるように、愛にも言語があるという本です。第一の言語は「肯定的な言葉」。第二は「クオリティー・タイム」。第三は「贈り物」。第四は「サービス」。第五は「身体的な触れ合い」。例えば夫婦にとって、二人は互いにたった一人の特別な存在です。そこには特別な言語があるはずです。それなのにすぐに約束を破ったなど、契約違反というビジネスの言語を持ち込んでしまうのがわたしたちです。この本は、そういう大切なことに気がつかせてくれます。けれども、たとえ愛の言語を使ったとしても、そこに愛がなければ無に等しい!と言うのです。  では愛とは何か。哲学者インマヌエル=カントは、愛するとは「相手を目的として見る」といいます。手段と目的という関係で考えてみると、例えば、相手に贈り物をするとき、その目的はプレゼントを渡すであるはずです。けれども、相手が喜ばなかったら「せっかくあげたのに」という思いになります。本来の目的は達成したはずなのにです。もしも、ありがとうが欲しいというのであれば、贈り物が手段。感謝を得るのが目的です。何かをすることで自分が満

2023年10月1日主日礼拝
「神が備える逃れの道」小松 美樹 牧師
コリントの信徒への手紙1 10章13節

【説教録画は <Youtube>】