2023年10月15日主日礼拝
「宝の入った土の器」小松 美樹 牧師
コリントの信徒への手紙Ⅱ 4章7~15節

【説教録画は <Youtube>】

 「わたしたちは、四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない。」有名な御言葉です。キリスト者にとって、ことあるごとに思い起こす聖書の言葉ではないでしょうか。パウロは、はっきりと苦難はあるということを語ります。神様を信じると、苦労がなくなるとか、生活が楽になるとか、信仰があれば、物事はうまく運ぶようになるとか、そういうことは言われていないのです。四方から苦しめられることはある。途方に暮れることもある。虐げられること、打ち倒されてしまうようなこともあるのです。しかし、それらによって、滅ぼされません。倒されて、膝をつくことがあっても、必ず立ち上がることができる、立ち上がらせて頂くことができます。立たせていただくのです。

  信仰とは、精神力や何度でも立ち上がるための力を養うことではありません。私たちが教会に行こうと思うきや、信仰を得たいと思うとき、「信仰があったらしっかり立てるだろう」ということを期待しているかもしれません。けれども、信仰というのは、しっかり立つと同時に、信じればこそ、膝を折ることができるということを忘れてはならないのです。信じるのもがあるからこそ、崩れることだってできるということです。

 伝道者となる夫婦の結婚式の時に、先輩の牧師が「夫婦喧嘩は負けておけ」と言いました。家族の中での論争、親子間でのやり取りのなかでも、相手と対立しそうになる時は、負けなさい、と言うのです。家族を打ち負かしたところで、それは何にもならないということです。主イエスが黙って十字架に向かって行った歩みは、正しさを証明しない事。飲み込むことでした。私たちが、全てを口に出さずに飲み込みなさいということではありませんが、人を守るために責めないということをしたいものです。だから、信仰があるということは、自分を守る思いを捨てられるのだと思います。そして主がしてくださったことを思い、私たちのためにすでに差し伸べられている憐みの主の御手があることを知っているからこそ、自分も膝を折り、地に這うことだってできるのです。 

 「ところで、わたしたちは、このような宝を土の器に納めています。この並外れて偉大な力が神のものであって、わたしたちから出たものでないことが明らかになるために」。この言葉を心に覚えている方も多いかと思います。私たちは土の器であるかもしれないけれども、その中に宝である、イエス・キリストの命を。土の器の中に福音の宝を持っているのです。「土の器」は、キリスト者が自分のことを謙遜するようにして、自分のことを指して言う事があります。「自分は土の器です」と。けれども、パウロが自分のことを「土の器」であるという時、世の中の、金、銀の器、石の器に比べて、自分はみすぼらしい壊れやすい土の器だと言うような、謙遜の含みを持たせるようない方をしているのではありません。事実、「人は土の器である。」と言っているのです。それは「死ぬはずのこの身」であるからです。自分は土の粗末な器という意味合いではなく、「自分はやがて死ぬ人間だ」と言っているのです。人は誰しも、やがて年老い、病を得て、死んでいく存在として「土の器」と言っているのです。

 「土の器」という小説があります。信仰者であった母の思い出を記したものです。病によって弱りゆく様子を描きながら、人間は土の器だということを語っています。 教会の中で、昔はできていたこと、様々な奉仕難しくなってきた話を聞きます。この奉仕もできなくなってきたと言う時、私たちはお互いに、祈ることはできる。そしてそれこそが最大の奉仕だと励ましあうことがあります。確かにそうです。祈り合う者たちがいることは、教会が教会として立つための要です。けれども、祈ることすらできなくなっていくこともあります。その時でも、弱い土の器の中に、宝であるイエス・キリストの命が、私たちの内にあるのです。  

 パウロは主イエスのことを様々な呼び方をしますが、今日の箇所では「イエス」と言います。神の子が地上に来てくださり、完全に人となられたことを表しています。人となってくださった、ナザレのイエス。つまり主イエスも、「土の器」になったのだということです。本当の宝は、この方が私たちと同じ土の器になってくださったということです。 私たちのために土の器になり、死すべき者となってくださった主の十字架の死と復活。神である主イエスが、私たちに近づき、同じ者となり、土の器となってくださったのです。飼い葉桶の誕生から十字架の死に至る、道を歩まれたのは、弱い私たちと同じ土の器となってくださり 、その身をもって救いへと導くためです。「主イエスを復活させた神が、イエスと共にわたしたちをも復活させ、あなたがたと一緒に御前に立たせてくださると、わたしたちは知っています」。死ぬはずのこの身に主イエスの命が現れるのです。神がこの土の器を用いて、ご自身の偉大な力、全ての人間のための希望を露わにしてくださるのです。