2023年10月22日主日礼拝
「伝道開始の苦悩と喜び」小松 美樹 牧師
コリントの信徒への手紙Ⅱ 12章7b~10節

【説教録画は <Youtube>】

 向河原教会の、伝道開始から72年の時を迎えました。1951年10月24日に、向河原教会は、この地に伝道を始めました。「なんとかしてキリストの教えをこの子どもたちの心に刻み込みたい」との祈りによって、武藤富男師により聖書研究会が始められました。1957年に教会が設立され、最初は保育園や工場、河原でも礼拝を捧げました。1959年に土地を取得し、会堂建築を計画します。向河原教会は1951年のラクーア牧師による音楽伝道と、武藤富男師の力添えにより動き出しました。

 終戦を迎え、武藤富雄先生が設立した日米会話学院の講師の一人がラクーア牧師でした。音楽伝道は、ラクーア牧師の貯蓄を使い、大きなトレーラーで生活をし、そこに楽器を積み、各地を回りました。苦労の絶えない伝道活動であることは容易に想像つきます。けれども、苦労の中にも、活き活きとした喜びに満ちた顔が浮かびます。 

 「わたしの身に一つのとげが与えられました」。使徒パウロがコリントの教会の人達へ書いた手紙の一節です。自分の弱さを告白しています。彼はその自分の弱さを「一つのとげ」と表現しています。彼は何らかの難しい病気にかかっていたようです。しかし、彼はこの病を、「思い上がらないように…サタンから送られた使い」と言います。この言葉にはパウロの信仰が力強く告白されていると思います。多くの人は、「なぜ自分がこんな目に遭うのか」と、神に対して、恨みや呪いの言葉が出てきてもおかしくないでしょう。しかし、パウロはここで、自分の傲慢さ、自分の罪といったものに目を注ぎ、「思い上がらないように」自分に与えられた試練であると告白しています。 直前の箇所の「自分自身については、弱さ以外には誇るつもりはありません」(12:5)。多くの人は、自分の弱さは隠して、人から評価されるものを表に出して誇ると思います。しかしパウロは、キリストに仕える者としての自分を誇っていて、その内容は、艱難苦難、飢えや迫害、日々のやっかい事や心配事でした。キリストを信じて従っているのに、踏んだり蹴ったりの連続です。「誇り」について、「わたしの身に一つのとげが与えられました。それは、思い上がらないように、わたしを痛めつけるために、サタンから送られた使いです」と言います。「とげ」は、パウロを苦しめていた病気だったでしょう。広く解釈して、パウロが受けていた誘惑だとも言われます。直前に語られた苦難や迫害もそうです。それらは、人を神とその恵みから引き離す力で、誘惑でもあります。 しかし、パウロがこのような境地に達するまでには、様々な苦悩や葛藤があったでしょう。 「この使いについて、離れ去らせてくださるように、私は三度主に願いました」。三度とは「繰り返しくりかえし」ということです。神に何度も、繰り返し願ったのです。何度も、来る日も来る日も、パウロが主に祈り願ったということです。 この苦しみの中でパウロは「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮される」という主の言葉を聞きます。「とげ」こそが、パウロを神の恵みへと導くものであり、弱さの中にキリストの力が、キリストの恵みが豊かに働いてくださるのだというのです。それゆえ、強い。苦難を克服したから恵みなのではありません。強くなったからでも、病気が癒されたからでもないのです。自分が弱った時にも決して失われない恵みがある。弱さの果てに死に至る時も、この恵みは失われません。パウロは信仰によってそのように確信して歩みました。  哀しみの空しい人生と感じる私たちを、傍らに置いて用いてくださり、み言葉を下さる慈しみの神です。私たちのために最も低い所に降られた十字架の主が「わたしの恵みはあなたに十分である」と言われる。私たちがこの方のものであるなら、もはや哀れな私ではなく、恵まれた私なのです。 

 星野富広さんという方は、数多くの詩画集を出しました。花の挿絵とともに信仰の詩が添えられています。「そこに、立っていても、倒れていても、ここは、あなたの手のひら」。 不慮の事故により自分の足で立てない不自由な身体になり、車椅子とベッドの寝たきりの動かぬ身体になりました。しかし、彼は口に筆をくわえて、多くの人々に信仰の詩を届けるようになりました。何もかも順調にいっている時、私たちは神に支えられなくても大丈夫だと、自分が人生を切り拓いていけると思ってしまいます。しかし、誰もが、突然の思いも寄らぬ出来事にあうことでしょう。 教会、伝道とは何か。それは何をさしおいても、礼拝です。キリストのいのちである礼拝、すべての事に先立ち、世代を超えて、聖書の言葉に新たにされるのです。73年目の向河原教会の歩みが、神の前に心を一つにし、聖書の言葉により、日々新たにされつつ、神の前に膝をかがめて礼拝する者の群れでありますように。