2023年10月8日主日礼拝
「いつまでも残るは信仰、希望、愛」石丸 泰信 先生
コリントの信徒への手紙Ⅰ 13章1~13節

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 「信仰と希望と愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である」。皆さんは自分の人生における徳目を持っているでしょうか。「信仰、希望、愛」はキリスト教の3つの徳目です。度ごとに思いだして大切にするべき3つです。コリントの教会の人々には良い賜物が与えられていたようです。けれども、それで問題も起きていた。そこでパウロは、その賜物をどう用いるかを伝えるためにこの手紙を書きました。

 「愛がなければ、わたしは騒がしいどら、やかましいシンバル」と言います。愛を失った言葉では誰も耳を傾けないとパウロは言うのです。では、どうすれば良いのか。愛は行為そのものでは無いのです。「全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも」「わが身を死に引き渡そうとも」という言葉があります。これらの行為は愛そのものに見えます。けれども「愛がなければ、わたしに何の益もない」という言葉が続くのです。愛がなければ「=ゼロ」。パウロがここで言いたいのは「愛無き愛」のことです。一見、愛の行為に見える。けれども、そこに愛がない。

 『愛を伝える5つの方法』(ゲーリー・チャップマン著)という本があります。英語を話す人に英語で伝えるように、愛にも言語があるという本です。第一の言語は「肯定的な言葉」。第二は「クオリティー・タイム」。第三は「贈り物」。第四は「サービス」。第五は「身体的な触れ合い」。例えば夫婦にとって、二人は互いにたった一人の特別な存在です。そこには特別な言語があるはずです。それなのにすぐに約束を破ったなど、契約違反というビジネスの言語を持ち込んでしまうのがわたしたちです。この本は、そういう大切なことに気がつかせてくれます。けれども、たとえ愛の言語を使ったとしても、そこに愛がなければ無に等しい!と言うのです。

 では愛とは何か。哲学者インマヌエル=カントは、愛するとは「相手を目的として見る」といいます。手段と目的という関係で考えてみると、例えば、相手に贈り物をするとき、その目的はプレゼントを渡すであるはずです。けれども、相手が喜ばなかったら「せっかくあげたのに」という思いになります。本来の目的は達成したはずなのにです。もしも、ありがとうが欲しいというのであれば、贈り物が手段。感謝を得るのが目的です。何かをすることで自分が満たされることを求めているのであれば、たとえ、それが愛の行為に見えたとしても満たされるための先行投資です。だから、損したと思う。

  愛し得ない者を愛することを聖書は愛と呼びます。この人は愛すべき、この人は愛し得ないという枠を作らないのが聖書の伝えている愛です。それをしてしまったのがキリスト・イエスで、それができないのがわたしたちです。自分ではできないことを相手に求めてしまう罪の姿がわたしたちにはあります。

 その愛とはなにか。4節から肯定的な言葉が7つ、愛は何々では無いという言葉が8つ続きます。それらは、最初の「忍耐強い」と最後の「すべてに耐える」で囲まれます。つまり愛は忍耐ということです。その際、情け深く、真実を喜び、忍び(掩うという翻訳も)、信じ、望むと言い、妬まず(勘定せずとも)、自慢せず、高ぶらず(耳を無くします)、礼を失せず、利益を求めない、恨まない、不義を喜ばないと言うのです。これには忍耐がいると思います。そして十字架に向かう主イエスの姿を思い起こせば、そこにこれらがあったことが分かります。手に釘、足に釘。愛することはボロボロになることです。

 最後に「それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である」と言います。希望について。多くの場合、光が見えてきた。「だから」希望があると言います。けれども、聖書のいう希望は、光が見えない「にも関わらず」希望があると言うのです。どうしてか。信じているからです。信仰とは「まだ見えていないものを、まるでもう見ているように」の力です。だからこそ希望を描けます。信仰無き希望は見えるものにしか希望を持てません。勝てそうだから、受かりそうだから、「だから」頑張れる。希望を持てる、という風に。けれども、例えば、誰かの「大丈夫」という言葉を信頼する人は、まだ出口が見えていなくとも、まるでそれをもう見ているように頑張れる。イサクがそうでした(創26章)。あるとき、住んでいる土地が飢饉に見舞われます。種を蒔いても育たないのです。多くの人は、その土地を捨てます。けれども、彼は神の「あなたはそこに」という言葉を信頼し、種を蒔き続けます。飢饉が終わりかけてきたと感じたから蒔いたのではありません。神である主の言葉を信じ、まだ見ぬ収穫をまるで見ているかのように蒔きました。主の言葉がそのまま希望になったのです。そして、イサクは多くを収穫しました。

 それまでの期間を思うと、とても出来ないと思います。どのように過ごしたか。13章の「忍耐強い」から始まる言葉が彼の姿にそのまま重なります。どうして耐えられたか。その土地をなお愛し、自分の人生を諦めずに愛したからだと思います。芽が出ない、もうダメだ、ではない。他の誰が捨てようとわたしは捨てない。愛し得ないという枠を作らない。彼だけではありません。アブラハムもノアも主の言葉を信じ、自分の人生を愛した人です。信仰と希望と愛、そのどれが欠けてもダメです。反対に、愛し、信じ、希望を描いたとき、彼らの姿に重なる自分の姿を見つけられるのだと思います。