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2023年7月23日主日礼拝
「神の愛の満ちるところ」小松 美樹 牧師
ローマの信徒への手紙 5章6~8節

【説教録画は <Youtube>】  本日から、教会学校と主日礼拝で、同じ御言葉を聞いていきます。向河原教会の創立時の願いである、「キリストの教えをこの子どもたちの心に刻み込んでいきたい」これは、今もその思いは響いています。だからこそ、教会学校の子どもたちに語られる御言葉と、大人たちとで、同じ御言葉を聞いて一週間を過ごしたいと思います。 今年度の教会学校のテーマは「教会」です。三要文に沿った御言葉が与えられています。今日は「使徒信条」の「死にて葬られ、陰府(よみ)にくだり」にあたる聖書の箇所です。主イエスが十字架にかけられて死んだこと。同時に陰府にまで降られたことを言い表しています。   日本では特に、環境によって、礼拝や聖書に触れたことのない人は多くいると思います。先週の礼拝の聖書箇所である、マタイ福音書の最後の言葉は、「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」 教会の伝道はなかなかに難しいです。主イエスの福音を届けられない場合もあります。 一方、福音はどこまでも私たちの救いを語り、主イエスは陰府にまで降り、最後は救ってくれるのだからと、洗礼を受けなくても変わらないと、理解するのは間違っています。それは、主イエスのガリラヤでの伝道も、十字架の出来事も無にしてしまうことになるでしょう。主イエスの伝道命令が響いているのが教会です。 聖書は主イエスが完全に死なれたことを、「死にて葬られ」と告白しているのです。 使徒信条によって「死にて葬られ…」との告白は主イエスが私たちの死と無関係な方ではなく、私たちの死においても救い主であることが告白されているのです。   主イエスは、マタイ 16:18「あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建 てる。陰府の力もこれに対抗できない。」 教会は陰府の力も対抗できない神の力を与え られているのです。   教会聖句 マタイによる福音書16章18節 「わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる」 主イエスのご生涯と御業を語る福音書を通して、弟子たちと人々に触れる主イエスのお姿を思いつ つ、教会から送り出される礼

2023年7月16日主日礼拝
「主に遣わされているという使命」小松 美樹 牧師
マタイによる福音書 28章16~20節

【説教録画は <Youtube>】  マタイによる福音書の、最後の言葉を読みました。約三年の間、私自身もマタイ福音書の御言葉のおかげで、この講談になんとか立たせてもらうことができたと思っています。いつも、この福音に支えられて、ここに立つことができました。また、説教奉仕を多くの先生方にしていただき、マタイ福音書を一緒に取り次いでもらう中で、私も一人の礼拝者として御言葉を聞くことができましたこと、本当に感謝しています。   十字架につけられた主イエスが、復活された後に、主イエスが指示された山に十一人の弟子たちを集められました。マタイ福音書は主イエスの昇天の様子は書かれていませんが、このあと、主イエスは天に昇られる場面と考えて差支えないでしょう。つまり、分かれの挨拶です。キリスト教会は、その後主イエス不在の時代を迎えます。目に見える姿の主イエスはここにおられない。そうした中で最後に語る言葉です。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」。 マタイはこの最後の言葉を特別な思いで記したことでしょう。復活の主に出会い、これまでの主イエスの言葉の意味や出来事が初めて理解できるようになる。だから、聖書は復活の主イエスに出会った者たちが出来事を遡るようにして記したのです。だから、きっとこの最後と最初の言葉「インマヌエル」、「神は我々と共におられる」を書き記したことでしょう。この言葉は福音書全体に響いているのです。   ご復活の主イエスに出会った弟子たちは「イエスに会い、ひれ伏した」。私たちの礼拝の姿がそこにあります。けれども同時にそこには「疑う者もいた」とあります。弟子たちの内の何人かが疑っていたと言うよりは、「イエスを見、拝んでいたが、疑っていた」という、言い方です。十一人の弟子は皆、主イエスを礼拝しながらも疑いの思いもあったのです。日曜日ごとの礼拝に来る私たちも、いつもいつも礼拝の思いや感謝に満ちていられないことがあるかもしれません。目に見えぬ主イエスのご復活と昇天、終わりの日の出来事に疑問を持つ時だってあるでしょう。  「疑う」は「二つの心に分かれる」という

2023年7月9日主日礼拝
「恐れることはない」上野 峻一 先生(東洋英和女学院 聖書科教諭)
マタイによる福音書 28章1~15節

【説教録画は <Youtube>】  説教題の「恐れることはない」。これは、聖書全体において、私たちに語る重要なメッセージです。マタイ福音書の特徴は、ユダヤ人キリスト者に向けて記されたと言われます。そのため、旧約聖書で前提とされている内容や律法によって記されます。だからこそ、神の子、救い主、キリストが、私たちに「恐れることはない」と語られる時、旧約聖書から続く、主なる神の御言葉として、私たちに語られ、響き渡るのです。   安息日が終わって、週の初めの日の明け方に、婦人たちが墓を見に行きます。この箇所は聖書学において問題となることがあります。「安息日が終わって」という言葉が「夕方」を意味するからです。ユダヤ教の理解では、日没で太陽が沈むと次の日になる。安息日が終わって婦人たちが墓を見に行ったのは、土曜日の夜。続く言葉の「明け方」は、「始まろうとしている」という意味で、新しい週が始まろうとしているのです。マリアたちは、安息日が終わったら、すぐ墓に向かったのでしょう。安息日は行動に制限がかかります。だから、彼女たちは安息日が終わるのを、とにかく待っていたのです。   「数人の番兵たちは、都に帰り、この出来事をすべて祭司長たちに報告した。そこで、祭司長たちは長老たちと集まって相談し、兵士たちに多額の金を与えて、言った。弟子たちが夜中にやって来て、我々の寝ている間に死体を盗んでいったと言いなさい。…この話は、今日に至るまでユダヤ人たちの間に広まっている。」イエス・キリストの復活をめぐって、ユダヤ人たちの間に広まっている噂がありました。弟子たちが遺体を盗んで、キリストの復活をでっちあげているというものです。キリストの墓には、兵士たちが見張りを立てていました。恐らく、主イエスが十字架で死なれた時から、弟子たちが遺体を盗むことが想定されていたのでしょう。ユダヤ人たちの間では、主イエス・キリストの復活をめぐって、相当、意見が分かれていたことが想像できます。主イエスは、本当に復活したのか、それとも、弟子たちがでっちあげたのかということです。それほどまでに、キリストの復活は重要で、伝道者パウロがコリントの信徒への手紙で記しているように、主イエス・キリストの復活がなかったのであれば、そもそも、私たちの信仰は無駄であるというほど、教会の信仰、教会の命は、主イエス・キリストの復活に、土台

2023年7月2日主日礼拝
「終わりと始まりの場所となった墓」小松 美樹 牧師
マタイによる福音書 27章57~66節

【説教録画は <Youtube>】  今日の聖書には、十字架の上で死んだ主イエスの遺体が降ろされて墓に納められる時の様子が記されています。祭司長たちとファリサイ派の人々は、墓に見張りを立てました。主イエスが 「三日後に復活する」 と話していたのを覚えていたからです。遺体を納めた墓を見張り、主イエスの教えは間違いであることを証明したかったからでしょう。だから、祭司長たちは番兵を送り、見張らせたのです。私たち人の、疑いの心は、用意周到に、そして自分にとって都合の悪い事は聞き漏らさぬように注意深くなるのだということがこの様子から、よくわかります。死者の復活など認めない。そのためには見張りもするし、先手を打って、他の情報(28:12)を広めるのです。   主イエスの「葬り」というのは、教会の歴史の中で大切な事柄です。聖書に書かれていることを言い現している、「使徒信条」では、とても簡潔に、そして短い中でも丁寧に「よみがえり」と、その事実を言い現しています。また、ハイデルベルク信仰問答においても、「まことに死んでしまったということを、証しするため」であると記されています。今では葬ったはずの墓も、もう空なのだということが、主イエスの復活を証明しています。  祭司長や律法学者は 「三日後に復活する」 ということを覚えていました。神殿を三日で建て直すと言われた言葉を、怒りを持って聞いていた者たちには、しっかりと刻まれていました。一方の弟子たちと、主イエスに従ってきた人々は、主イエスが、「三日後に復活する」ことを教えられていましたが、よくわからないままでいました。たとえ、主イエスのご復活のことをはっきりと覚えていて、「あのように言っていたのだから大丈夫。」と思ったとしても、死は私たちの誰もが必ず経験するものでありながら、誰もわからない事柄であるのです。 そのような中で、十字架による死を、誰よりも恐れていたのは主イエスご自身です。  先週の聖書の箇所には、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と叫ぶほどの悲しみを抱えていました。「どうせ復活するのだから、死など恐くない」、と思うのではなく、とても悲しい出来事で、恐れを抱いていました。教会で、葬儀や記念会で思い起こすのは、終わりの時には主イエスが再び来てくださり、顔と顔を合わせるようになるということ。死が全ての終わり