2023年7月2日主日礼拝
「終わりと始まりの場所となった墓」小松 美樹 牧師
マタイによる福音書 27章57~66節

【説教録画は <Youtube>】

 今日の聖書には、十字架の上で死んだ主イエスの遺体が降ろされて墓に納められる時の様子が記されています。祭司長たちとファリサイ派の人々は、墓に見張りを立てました。主イエスが「三日後に復活する」と話していたのを覚えていたからです。遺体を納めた墓を見張り、主イエスの教えは間違いであることを証明したかったからでしょう。だから、祭司長たちは番兵を送り、見張らせたのです。私たち人の、疑いの心は、用意周到に、そして自分にとって都合の悪い事は聞き漏らさぬように注意深くなるのだということがこの様子から、よくわかります。死者の復活など認めない。そのためには見張りもするし、先手を打って、他の情報(28:12)を広めるのです。 

 主イエスの「葬り」というのは、教会の歴史の中で大切な事柄です。聖書に書かれていることを言い現している、「使徒信条」では、とても簡潔に、そして短い中でも丁寧に「よみがえり」と、その事実を言い現しています。また、ハイデルベルク信仰問答においても、「まことに死んでしまったということを、証しするため」であると記されています。今では葬ったはずの墓も、もう空なのだということが、主イエスの復活を証明しています。

 祭司長や律法学者は「三日後に復活する」ということを覚えていました。神殿を三日で建て直すと言われた言葉を、怒りを持って聞いていた者たちには、しっかりと刻まれていました。一方の弟子たちと、主イエスに従ってきた人々は、主イエスが、「三日後に復活する」ことを教えられていましたが、よくわからないままでいました。たとえ、主イエスのご復活のことをはっきりと覚えていて、「あのように言っていたのだから大丈夫。」と思ったとしても、死は私たちの誰もが必ず経験するものでありながら、誰もわからない事柄であるのです。 そのような中で、十字架による死を、誰よりも恐れていたのは主イエスご自身です。

 先週の聖書の箇所には、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と叫ぶほどの悲しみを抱えていました。「どうせ復活するのだから、死など恐くない」、と思うのではなく、とても悲しい出来事で、恐れを抱いていました。教会で、葬儀や記念会で思い起こすのは、終わりの時には主イエスが再び来てくださり、顔と顔を合わせるようになるということ。死が全ての終わりではないのだと言う事を繰り返し語ります。

  主イエスが復活するとわかっていても、それは、主イエスご自身も、そして弟子たち、私たちも死を恐れます。また愛する者たちとのしばしの別れに悲しみます。それでも、主イエスはその死の恐れも経験し、私たち誰もが経験する死をも共にしてくださり、「はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」(12:24)このようにお語りになり、主イエスの死と復活が、私たち人の死から復活へと導かれる初穂となられました。それに続く実りへとしていただくことへと繋がる死を私たちに見せてくださっているのです。