2023年7月16日主日礼拝
「主に遣わされているという使命」小松 美樹 牧師
マタイによる福音書 28章16~20節

【説教録画は <Youtube>】

 マタイによる福音書の、最後の言葉を読みました。約三年の間、私自身もマタイ福音書の御言葉のおかげで、この講談になんとか立たせてもらうことができたと思っています。いつも、この福音に支えられて、ここに立つことができました。また、説教奉仕を多くの先生方にしていただき、マタイ福音書を一緒に取り次いでもらう中で、私も一人の礼拝者として御言葉を聞くことができましたこと、本当に感謝しています。

  十字架につけられた主イエスが、復活された後に、主イエスが指示された山に十一人の弟子たちを集められました。マタイ福音書は主イエスの昇天の様子は書かれていませんが、このあと、主イエスは天に昇られる場面と考えて差支えないでしょう。つまり、分かれの挨拶です。キリスト教会は、その後主イエス不在の時代を迎えます。目に見える姿の主イエスはここにおられない。そうした中で最後に語る言葉です。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」。 マタイはこの最後の言葉を特別な思いで記したことでしょう。復活の主に出会い、これまでの主イエスの言葉の意味や出来事が初めて理解できるようになる。だから、聖書は復活の主イエスに出会った者たちが出来事を遡るようにして記したのです。だから、きっとこの最後と最初の言葉「インマヌエル」、「神は我々と共におられる」を書き記したことでしょう。この言葉は福音書全体に響いているのです。 

 ご復活の主イエスに出会った弟子たちは「イエスに会い、ひれ伏した」。私たちの礼拝の姿がそこにあります。けれども同時にそこには「疑う者もいた」とあります。弟子たちの内の何人かが疑っていたと言うよりは、「イエスを見、拝んでいたが、疑っていた」という、言い方です。十一人の弟子は皆、主イエスを礼拝しながらも疑いの思いもあったのです。日曜日ごとの礼拝に来る私たちも、いつもいつも礼拝の思いや感謝に満ちていられないことがあるかもしれません。目に見えぬ主イエスのご復活と昇天、終わりの日の出来事に疑問を持つ時だってあるでしょう。

 「疑う」は「二つの心に分かれる」という意味合いがあります。私たちの信頼するものが主イエスだけでなくなってしまうときです。どっちつかずで、自分の立つべき場所が分からなくなってしまうのです。それでも、主イエスはその弟子たち、私たちに「近寄って」こう言われます。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい」。「伝道しなさい」と言われたのです。どんな伝道を思い描くでしょうか。私は幼い頃から教会の礼拝に出ていましたが、「伝道」なんて、思ってもみなませんでした。それくらい身近に無い言葉でした。今でも、教会から「伝道する」と言う言葉を伝えようと思っても、果たしてどんなことができるかと考えてしまいます。けれども、自分には思いもかけないような仕方、繋がりで、周りの支えにより、教会に導かれる人、礼拝に来続けるようになる方がいること。そこから、主イエスを信じ、洗礼を受けてクリスチャンになる人が起こされる。不思議な思いでいます。

  みなさんも、伝道なんて自分にはできない。そう思っている方もいるかもしれません。「私は何もできなくなった。今はただ、礼拝に来るだけ。」そう言われる方がいます。けれども、毎週毎週教会に来て、今日の暑い日にも礼拝しに教会に来る。家族にも、初めて教会に来る人を迎えることも、その姿が伝道しているのです。そして礼拝を絶やさない。いつでも、向河原にはここに教会があり、日曜日に来てみれば礼拝している。そのことが何よりの伝道になっているのです。 マタイ福音書に記されていた主イエスの教えと、神の愛を思いつつ、赦されている喜びと感謝を持って、「いつもあなたがたと共にいる。」と言われる主イエスとの歩みを続けましょう。